前回は、「図説 鉄道パノラマ地図」(編者:石黒三郎+アイランズ。発行:河出書房新社)内の「関東⑦ 東急東横線 東急目黒線」(32~35ページ)に含まれる疑義等について取り上げた。今回は「関東⑩ 東急池上線」(44~47ページ)を取り上げていこう。
──と書き出してはみたものの、実は目黒蒲田電鉄(東急東横線・目黒線)よりも誤りや気になる点が少ないのである。一応、列挙してみると、
44ページ「五反田駅開業が昭和3年、昭和8年に「雪ヶ谷」が「雪ヶ谷大塚」に改称することからその間の発行だろう。」
以前にも当blogで何度となく取り上げているが、雪ヶ谷駅が雪ヶ谷大塚駅に改称されたのは昭和8年(1933年)ではない。この年は、雪ヶ谷駅が隣の調布大塚駅と合併したとされるのだが、実は「合併」あるいは「統合」したという事実を見出せていない(駅位置がほぼ現在地に異動したのは、昭和8年よりもかなり後の昭和13年頃)。雪が谷大塚(雪ヶ谷大塚)駅については、当blogの以下の記事を参照されたい。
「雪が谷大塚駅の駅名変遷について 」
「続・雪が谷大塚駅の駅名変遷について 」
「雪が谷大塚駅関連で調査しているもの(一部結果) 」
「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編] 」
「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編) 」
これらの記事を書いて約1年ほど経過しているが、この間、池上電気鉄道関連の歴史を調査するに連れ、調布大塚駅は雪ヶ谷駅と合併あるいは統合した事実はなく、単に廃止されただけなのではないかと考えている。
(「雪ヶ谷大塚」という駅名がいかにも「雪ヶ谷」と「調布大塚」を合わせたような名前なので、統合・合併したと誤解を招く原因となったのでは? 私の予想では、仮に昭和18年(1943年)に改称された前提とするなら、雪ヶ谷町と調布大塚町にまたがる駅名が「雪ヶ谷」ではおかしいというような風潮となり、地元あるいは当局の要請によって改称されたのではないか、と。)
45ページ「この支線は当初、雪ヶ谷と国分寺間の開通を目指していたが、いち早く目蒲電鉄が大岡山~二子玉川間の新線で線路用地を確保したため、計画は頓挫してしまい、支線そのものが廃止となった。」
奥沢線の解説(本書もご多分に漏れず「新奥沢線」と表記しているが)だが、いわゆる通説である。これは公文書館等の資料や玉川全円耕地整理組合関連の資料などを確認すると、実際にはそうでないことが確認できている。近いうちに「池上電気鉄道VS目黒蒲田電鉄」シリーズで取り上げる予定であるが、簡潔に記すなら「この支線は当初、目蒲電鉄の田園調布駅に接続させる目的であったが、目蒲電鉄の反対や鉄道省の許認可が得られる見込みがなかった。よって、国分寺駅までの延長線という形を取り、途中で(事実上)目蒲電鉄の駅に接続させることを目指したが、目蒲電鉄は計画線との交叉部分に関する協議に応じず、大井町線(二子玉川線)の計画を変更させるなどして最後まで協議をさせなかった。その間、自由ヶ丘~二子玉川間が開通し、本線に次いで支線まで目蒲電鉄に先を越されたのである」と。
45~46ページ「現在の東急ストアは、当時「白木屋分店」といい、日本橋白木屋が、池上線が全通した年の瀬に駅ビルヂングに開設した。」
本書は今年になって発売されたもので、どんなに古くても昨年に著したものであろう。よって現在の東急ストア、というよりは「レミィ五反田」と表記する方がいい。実際、五反田東急ビル内にまだ東急ストアは健在だが、縮小されて五反田駅と接続する4階にはもうない(3階以下に限られる)。著者の知識が単に更新されていないだけ、というよりは知らないだけなのだろうが。
46ページ「大正12開業 昭和8調布大塚と統合 雪ヶ谷大塚に改称 昭和41雪が谷大塚と表記変更」
先にもふれたように、雪ヶ谷大塚への改称時期を誤っている。
以上、というかこれだけしかない。雪ヶ谷大塚への改称時期と奥沢線関連、あとはレミィ五反田くらいのものだが、たったの4ページでしかも半分以上が図版であるので、逆の見方、つまりこんなにあると言えなくもない。
というわけで、前回と今回の二回にわたって「図説 鉄道パノラマ地図」(ふくろうの本)における目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道に関連する部分の誤り等を示した。本書のメイン著者(編者)と思われる石黒三郎氏は、鉄道関連(歴史も含む)にはあまり詳しくない…というか、ふくろうの本の性質上、詳しい解説が書けないだけかもしれないが、他部分を読んでも「自分の言葉」で書いているように見えない箇所が多い(だから編者か?)。沿線案内の図版は確かに面白いのだが、解説文が今いちなのである。そして、本書の最後の方には次のようにも書かれている。
126ページ「各駅の開業・移設・改称などの年度および路線距離は、「日本鉄道旅行地図帳」(監修・今尾恵介 新潮社)を参考にした。本書掲載の沿線案内には、発行年が記されていないものが多かったが、「日本鉄道旅行地図帳」の記述によってその多くを推定することができた。」
なるほど。誤りの多くは「日本鉄道旅行地図帳」に起因するのか、ということで近いうちにこの書籍についても、誤り等を調べてみるとしよう。といったところで、今回はここまで。
五反田駅白木屋分店
池上電鉄を合併してからも白木屋分店はそのまま営業を続け、東急ストアになったのの東急が白木屋を吞み込んでからであった。これにはある特殊事情があったと聞いていますが残念乍らその理由はよく知りません。当時の白木屋は、鶴見臨港鉄道鶴見駅、大森駅前、城東電軌の錦糸町にターミナルデパートを開店して積極的な営業を展開していました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/09 22:26
私が物心ついたときは、「東光ストア」でした。
「以前は白木屋だったんだよ」と、祖父母から聞きました。
東光ストアのカサブランカが、今でも目に焼きついています。
レミィ五反田先日初めて行きました。結構おしゃれな建物になってましたね。
そしていつも思うのですが。XWIN II様のこの、正確な検証。
ぜひこうした発行元に伝えるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
でないと、キャンブックス等、いつまでも誤った記載を、世の中に流布させ。
「そういうものなんだ」と思い込んでしまう人たちが多数出てきてしまい。
本当のことを知っている人が、この先少なくなり。
誤った記事が「定説」として、その歴史になってしまうのは、残念です。
投稿情報: りっこ | 2010/05/10 07:23
コメントありがとうございます。
>これにはある特殊事情があったと聞いていますが残念乍らその理由はよく知りません。
横井秀樹が白木屋株買収騒動を起こして、最終的に横井氏の持ち株を引き受けたのが五島慶太であって、という流れはわかっているのですが、特殊事情までは…。
そして、もともと白木屋分店のビルは2階建てで、その上を池上電鉄が走る予定だったものが白金延伸を断たれ、目蒲電鉄の軍門に下った後、4階まで増築されたという流れだったとも聞きますが、このあたりも特殊事情に絡むのかな…、と。
>私が物心ついたときは、「東光ストア」でした。
かつて私は、なぜ東急ストアでないのだろうと思っていました。東急なのに東光としたのは、戦後間もない頃に三菱銀行が「三菱」財閥の名を使うことを禁じられ、千代田銀行に改称させられたように「東急」の名を使うことを禁じられてたのかな、とか。
>ぜひこうした発行元に伝えるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
私は本件についてはアマチュアであって、仕事による成果で報酬を得るプロではありません。ただ、プロであるはずの面々が「いい加減な仕事」をしているように見えるため、こういうblogのような場を利用して情報発信しているに過ぎないのです。そして、誤った(と目される)本を出版(編集)する版元に対しては、わざわざ指摘するほど親切な行動を取る気もなく、本当に営業努力を怠らないのであれば、自ら情報を得る努力をすべきでしょう。昔と違い、今はいくらでもそういった情報にはアクセスできるのですから。
また、私の調査についても行える範囲は限られており、時間はプロの方々からすれば圧倒的に短いものです。時間と成果は正比例するものではないですが、それでもある程度は比例します。私以上に生業としている人たちの方が、手間も時間も掛けることができるはずなのですから、同じ情報からならよりいいものができるはずです。なので、わざわざそういう差し出がましいことまでは行うつもりはなく、こうしてblogで情報発信するだけで十分だと考えているのです。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/10 19:15
XWIN II様
五反田白木屋
池上電鉄を買収した時に白木屋五反田店の経営を容認する旨の取り決めがあったと東急の役員をしていた義兄から聞いたことがあります。なぜ容認したかの理由迄は知りません。今日の清洲橋通りの惨状を日本橋出店に固執した五島氏は予見できなかったのでしよう。同氏にとっては高い買い物でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/10 21:12
鉄道パノラマ地図を大田区図書館で借りてきました。昔の思い出を甦えさせるロマンに満ちた内容です。ご紹介頂き有り難う御座いました。例えば京王電鉄の追分の終点駅は遠足で度々集合したのでよく覚えています。またJR新宿駅南口への乗り換えで駅員が電車が到着すると、その都度踏み台を電車の出入り口の所に持って行っていたのを覚えています。当時の通勤人口はそんなもんでした。
さて36ペイジ東横、目蒲、玉川電車沿線案内図には昭和12年発行とあり調布大塚となっていますので46ペイジと矛盾します。路線バスが調布大塚を起点として恐らく六間道路を経由して田園調布迄と中原街道の恐らく新道(丸子橋となっていますので)を経由して新丸子迄運行されています。昔は雪谷ではなく旧調布町役場が起点だったのでしょうか。また分譲地のマークが付けられていますので昭和12年でもまだ分譲していたのでしょうか。パンフレットの表紙に短命に終わったガソリンカーが印刷されているので年代は正しいと思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/22 17:43
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
>さて36ペイジ東横、目蒲、玉川電車沿線案内図には昭和12年発行とあり調布大塚となっていますので46ペイジと矛盾します。
昭和8年に調布大塚駅が廃止(雪ヶ谷駅と統合)となるという説。雪ヶ谷駅や奥沢線の歴史を洗い直している中、私が疑義を抱いているのは「雪ヶ谷駅の位置がほぼ現在地に異動するのは、奥沢線廃止後の昭和12年に入ってからで昭和13年に至るまでの間、雪ヶ谷~御嶽山間の曲線変更工事を経た前後」であるにもかかわらず、なぜ昭和8年に調布大塚駅と雪ヶ谷駅が統合という話になったのか?
時期的に、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に統制される直前というタイミングで、調布大塚駅を廃止する理由も見えません。駅の整理であれば、どんなに早くても目黒蒲田電鉄による統制後ではないかな、と。
なので、ご指摘の36ページの図に「調布大塚駅」が描かれているのを「嘘」だと決めつけるのを本稿及び前稿で躊躇ったわけです。このあたりの歴史も今後の課題として検討していくつもりです。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/23 11:21
調布大塚駅
以前のブログで昭和16年ころまで調布大塚があった証拠の切符の写真が掲載されいたように記憶しています。いずれにしても昭和8年とは考えられません。運賃表でもあれば立証できるのですが、36ペイジのパノラマの方が正しいことはほぼ確実であると思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/23 16:45
調布大塚捕足説明
東急ローリングストッくに掲載されている雪谷行きの行き先板が付いた車両と他の車両が石川台の手前で行き交っている写真ですが、一方が池上電鉄プロパーの車両で、他方が東横線で開通当時使用された車両ですので少なくとも合併後かなり時間が経過してからであることは間違いないので、昭和8年では絶対にあり得ません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/24 08:43
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
切符の件については、昭和10年代に入っても「雪ヶ谷」駅のままということをお示ししましたが、「調布大塚」駅については確たる証拠がないというのが現状です。昭和8年に調布大塚駅が廃止だとしても、文書上はともかく実態としては雪ヶ谷駅に統合ではないような印象です。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/25 07:24
雪谷大塚
コメント有り難う御座います。フランダースの犬の様にアニメが史実に変化し日本人の観光客にアントワープの市
当局が迎合してるとのことですが、漫画でも史実となる事もあります。昭和8年もこの類でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/25 08:55