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2010/05/09

コメント

五反田駅白木屋分店
池上電鉄を合併してからも白木屋分店はそのまま営業を続け、東急ストアになったのの東急が白木屋を吞み込んでからであった。これにはある特殊事情があったと聞いていますが残念乍らその理由はよく知りません。当時の白木屋は、鶴見臨港鉄道鶴見駅、大森駅前、城東電軌の錦糸町にターミナルデパートを開店して積極的な営業を展開していました。

私が物心ついたときは、「東光ストア」でした。
「以前は白木屋だったんだよ」と、祖父母から聞きました。

東光ストアのカサブランカが、今でも目に焼きついています。
レミィ五反田先日初めて行きました。結構おしゃれな建物になってましたね。

そしていつも思うのですが。XWIN II様のこの、正確な検証。
ぜひこうした発行元に伝えるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
でないと、キャンブックス等、いつまでも誤った記載を、世の中に流布させ。
「そういうものなんだ」と思い込んでしまう人たちが多数出てきてしまい。

本当のことを知っている人が、この先少なくなり。
誤った記事が「定説」として、その歴史になってしまうのは、残念です。

コメントありがとうございます。

>これにはある特殊事情があったと聞いていますが残念乍らその理由はよく知りません。

横井秀樹が白木屋株買収騒動を起こして、最終的に横井氏の持ち株を引き受けたのが五島慶太であって、という流れはわかっているのですが、特殊事情までは…。
そして、もともと白木屋分店のビルは2階建てで、その上を池上電鉄が走る予定だったものが白金延伸を断たれ、目蒲電鉄の軍門に下った後、4階まで増築されたという流れだったとも聞きますが、このあたりも特殊事情に絡むのかな…、と。

>私が物心ついたときは、「東光ストア」でした。

かつて私は、なぜ東急ストアでないのだろうと思っていました。東急なのに東光としたのは、戦後間もない頃に三菱銀行が「三菱」財閥の名を使うことを禁じられ、千代田銀行に改称させられたように「東急」の名を使うことを禁じられてたのかな、とか。

>ぜひこうした発行元に伝えるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。

私は本件についてはアマチュアであって、仕事による成果で報酬を得るプロではありません。ただ、プロであるはずの面々が「いい加減な仕事」をしているように見えるため、こういうblogのような場を利用して情報発信しているに過ぎないのです。そして、誤った(と目される)本を出版(編集)する版元に対しては、わざわざ指摘するほど親切な行動を取る気もなく、本当に営業努力を怠らないのであれば、自ら情報を得る努力をすべきでしょう。昔と違い、今はいくらでもそういった情報にはアクセスできるのですから。
また、私の調査についても行える範囲は限られており、時間はプロの方々からすれば圧倒的に短いものです。時間と成果は正比例するものではないですが、それでもある程度は比例します。私以上に生業としている人たちの方が、手間も時間も掛けることができるはずなのですから、同じ情報からならよりいいものができるはずです。なので、わざわざそういう差し出がましいことまでは行うつもりはなく、こうしてblogで情報発信するだけで十分だと考えているのです。

XWIN II様
五反田白木屋
池上電鉄を買収した時に白木屋五反田店の経営を容認する旨の取り決めがあったと東急の役員をしていた義兄から聞いたことがあります。なぜ容認したかの理由迄は知りません。今日の清洲橋通りの惨状を日本橋出店に固執した五島氏は予見できなかったのでしよう。同氏にとっては高い買い物でした。

 鉄道パノラマ地図を大田区図書館で借りてきました。昔の思い出を甦えさせるロマンに満ちた内容です。ご紹介頂き有り難う御座いました。例えば京王電鉄の追分の終点駅は遠足で度々集合したのでよく覚えています。またJR新宿駅南口への乗り換えで駅員が電車が到着すると、その都度踏み台を電車の出入り口の所に持って行っていたのを覚えています。当時の通勤人口はそんなもんでした。
 さて36ペイジ東横、目蒲、玉川電車沿線案内図には昭和12年発行とあり調布大塚となっていますので46ペイジと矛盾します。路線バスが調布大塚を起点として恐らく六間道路を経由して田園調布迄と中原街道の恐らく新道(丸子橋となっていますので)を経由して新丸子迄運行されています。昔は雪谷ではなく旧調布町役場が起点だったのでしょうか。また分譲地のマークが付けられていますので昭和12年でもまだ分譲していたのでしょうか。パンフレットの表紙に短命に終わったガソリンカーが印刷されているので年代は正しいと思います。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

>さて36ペイジ東横、目蒲、玉川電車沿線案内図には昭和12年発行とあり調布大塚となっていますので46ペイジと矛盾します。

昭和8年に調布大塚駅が廃止(雪ヶ谷駅と統合)となるという説。雪ヶ谷駅や奥沢線の歴史を洗い直している中、私が疑義を抱いているのは「雪ヶ谷駅の位置がほぼ現在地に異動するのは、奥沢線廃止後の昭和12年に入ってからで昭和13年に至るまでの間、雪ヶ谷~御嶽山間の曲線変更工事を経た前後」であるにもかかわらず、なぜ昭和8年に調布大塚駅と雪ヶ谷駅が統合という話になったのか?
時期的に、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に統制される直前というタイミングで、調布大塚駅を廃止する理由も見えません。駅の整理であれば、どんなに早くても目黒蒲田電鉄による統制後ではないかな、と。
なので、ご指摘の36ページの図に「調布大塚駅」が描かれているのを「嘘」だと決めつけるのを本稿及び前稿で躊躇ったわけです。このあたりの歴史も今後の課題として検討していくつもりです。

調布大塚駅
以前のブログで昭和16年ころまで調布大塚があった証拠の切符の写真が掲載されいたように記憶しています。いずれにしても昭和8年とは考えられません。運賃表でもあれば立証できるのですが、36ペイジのパノラマの方が正しいことはほぼ確実であると思います。

調布大塚捕足説明
東急ローリングストッくに掲載されている雪谷行きの行き先板が付いた車両と他の車両が石川台の手前で行き交っている写真ですが、一方が池上電鉄プロパーの車両で、他方が東横線で開通当時使用された車両ですので少なくとも合併後かなり時間が経過してからであることは間違いないので、昭和8年では絶対にあり得ません。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

切符の件については、昭和10年代に入っても「雪ヶ谷」駅のままということをお示ししましたが、「調布大塚」駅については確たる証拠がないというのが現状です。昭和8年に調布大塚駅が廃止だとしても、文書上はともかく実態としては雪ヶ谷駅に統合ではないような印象です。

雪谷大塚
コメント有り難う御座います。フランダースの犬の様にアニメが史実に変化し日本人の観光客にアントワープの市
当局が迎合してるとのことですが、漫画でも史実となる事もあります。昭和8年もこの類でしょう。

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