年度末にしては珍しい、暦どおりの三連休。図書館などで課題を調査してきた。課題とは前回に示したとおり、
- 開業時からの駅位置等の変遷を探るため、関係する地図群の収集・確認。
- 社史や各種文献からの駅の歴史(特に昭和25年以前)。
- 路線図、切符等の駅名表記。
- 写真など。
である。
これまでも各種文献などを眺めてはきたが、漫然と見てきた部分もあることから、上記目的を持って改めて確認すると、次のようなことを確認できた。
1に関連して。
当Blogでもいくつか地図(部分)を示してきたが、これ以外にもいくつか確認したところ、駅の位置は定説どおり、「開業時→奥沢線開通時→新奥沢線廃止後しばらくして」と、計二回の移転が行なわれていることが確認できた。
2に関連して。
社史では、決定版と位置づけられる「東京急行電鉄50年史」を確認。今更だが、雪ヶ谷大塚駅への改名は雪ヶ谷駅と調布大塚駅が統合された昭和8年6月1日と数か所で記されており、昭和8年雪ヶ谷大塚改名説の典拠は「東京急行電鉄50年史」と考えられる。確かに社史を典拠としたくなるのは私も同じで、まさか記述が誤っているとは考えようもない。しかし、残念ながらこれは事実で、単なる誤植ではない完全な誤りも多く含まれていた。とはいえ、多くの誤りの責任は執筆者にあり、関係した大学教授あたりのレベルの低さが根源だろう。社史とは、後世にも長く残るものなので、誰に監修を任せるかというのが非常に重要だと認識できたのは大きな成果だった。
最近の公式資料である「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」(監修 関田克孝。発行所 東急エージェンシー出版部)では、P9の年表には「昭和8年6月1日 池上線「調布大塚」と合併し、「雪ヶ谷大塚」と改称」とあるが、P43の駅説明には「昭和8年6月1日調布大塚と統合。昭和18年雪ヶ谷大塚に改称」とあり、相矛盾した表記が併記されている。公式資料ですらこういう状態なのだから、この問題の根の深さがわかるというものである。
ただ、この書籍には重要な写真が掲載されている。それはP42右上にある昭和16年8月撮影とされる写真で、電車の先頭部分に「五反田 雪ヶ谷」とあるもの。そしてP43左下にある昭和20年撮影とされる写真には、電車の先頭部分に「雪ヶ谷大塚」とあるもの。家人曰く「単に文字を書くスペースが足りないから省略してるだけじゃない?」というが、昭和16年8月時点では「雪ヶ谷大塚」ではなく「雪ヶ谷」表記が電車の行き先表示にあり、昭和20年時点では「雪ヶ谷大塚」とあることは、昭和18年改名説を裏付ける重要な証拠であるように思う。
3に関連して。
そして路線図や切符については、ポイントとなる昭和8年6月1日~昭和19年頃までのものは、あるにはあるがどうにも不可思議なものが残っていた。まず、路線図だが、昭和10年代初期と思われる目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄発行の路線図には、池上電気鉄道という他社路線からか、池上線の情報に疑問符が付けられる。以前話題にした「慶大グラウンド前」駅は「慶大グランド」あるいは「慶大グランド前」と表記されているし、今回焦点としている「雪ヶ谷」駅関連については、表記は「雪ヶ谷」駅となってはいるが、「調布大塚」駅が残されている等、昭和8年6月1日に「調布大塚」駅と「雪ヶ谷」駅が合併したことすら否定するものとなっている。ちなみに昭和8年6月1日に改名された「御嶽山」駅(以前は「御嶽山前」)については、正しく改名後のものとなっている。
なお、昭和18年発行の「東京横浜電鉄沿革史」に記載される路線図では「調布大塚」はなく「雪ヶ谷」のみとなっているが、「雪ヶ谷大塚」という表記はどこにもない。「雪ヶ谷」表記は路線図のみならず、営業報告等にも掲載されているので、本書の記載を信用するならば、昭和18年直前まで「雪ヶ谷」駅だったとしか読み取れない。
一方、切符については残念ながら、現時点では当該期間のものを発見することはできなかった。引き続き、要調査である。
4に関連して。
写真については、先にふれたように「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」のP42及びP43に典拠となりそうな写真はあったが、これをもって完全な証明とはなお言い難い。今後も引き続き、資料を収集することになるだろう。
以上、調査経過についてお伝えした。そろそろ別ネタに…。
コメント