3か月ほど前、「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」という記事内において、東急池上線の雪が谷大塚駅の変遷について以下のように記述した。
明らかにこれまでの定説を覆す事実に気がつくだろう。そう、それは雪ヶ谷駅の移動遍歴である。「回想の東京急行 I」等に見られるように、雪ヶ谷駅の駅の位置は全部で三つあり、初代(大正12年。開設時)→二代目(昭和3年。奥沢線開通時)→三代目(調布大塚駅統合時)などとされてきた。このうち、初代が最も北側に位置するとされていたのだが、3,000分の1地形図からの情報では、初代から二代目に移行の際、南下したのではなく北上したことが確認できる。そして、三代目となって再び南下し、初代よりも南側に位置するようになった。これは、駅南側道路に接道させるための変更である。
これまでの定説とは、「回想の東京急行 I」にある次の記述である。
初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置に開業した。設備の詳細は不明で、営業期間も短く、昭和3(1928)年10月には新奥沢支線の開業にともなって約150m蒲田寄りに移設した。当初、相対式ホームのみであったが、まもなく新奥沢支線用のホームが設置され、立派な分岐駅の体裁を成した。
初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置だというが、地図で確認するとわかるように不自然な位置にある(後でまとめて示す)。本文にもあるが、設備の詳細は不明とあり、この場所は駅の痕跡すら残っていない。では、なぜこの場所が初代の雪ヶ谷駅だとしたのか? この疑問に対し「回想の東京急行 I」にはまったくふれられていないので答えようがないが、ついにこの説の典拠と思われる書籍を見つけた。「鉄道廃線跡を歩く VII」(宮脇俊三 著、JTB発行)である。この本の105~107ページには「池上電気鉄道新奥沢支線」が紹介されているが、ここに雪ヶ谷駅の変遷が地図に示されている。早速確認してみよう。
本文中には、
石川台1号踏切際にあった初代雪ヶ谷駅(A)は高圧鉄塔用地になって何も発見できないが、1号と2号踏切の中間より線路幅が広がり始める地点が新奥沢分岐点である(B)。続く3号踏切の進行右側空地が二代目雪ヶ谷駅本屋の位置であった。また、現・雪が谷大塚駅ホームの五反田寄りが二代目駅ホーム位置で(以下略。下に部分図で補完。なお、下地図にあるA地点は本文中にある石川台1号踏切付近ではなく、石川台2号踏切付近を指している。単にこれは誤植のようなものと思われる。)
とあり、初代雪ヶ谷駅の位置については「回想の東京急行 I」とほぼ同内容の記載となっている。これは「回想の東京急行 I」の著者の一人 関田克孝氏が「鉄道廃線跡を歩く VII」中の「池上電気鉄道新奥沢支線」の著者でもあり、よって同内容で記載したと考えられる。加えて、両書とも2001年の初版発行であり、おそらく執筆時期も近いと思われる。つまり、両書に記載されている初代雪ヶ谷駅の位置の根拠は、どちらか一方で根拠を確認できれば、両方とも証明できるとなるわけである。下に「鉄道廃線跡を歩く VII」の107ページを縮小・圧縮して引用しているが、このページには3枚の地図が掲げられており、最も古いものは国分寺線第一期計画図で、ベースは3千分の1地図(おそらく大正14年のもの)。二番目に古いのは新奥沢線開通後の昭和初期の1万分の1地図。残るものがほぼ現代に近い1万分の1地図である。縮尺が異なるものがあるが、この3枚をできる限り同一縮尺かつ同地域となるよう工夫がされている。
だが、よく見てみると位置がずれているだけでなく、縮尺が合っていないことがわかる。特に国分寺線第一期計画図(右下の図)は、ベースが3千分の1だからなのか、他の1万分の1地図と位置がずれている上に明らかに他の2図と比較してやや縮尺が大きめになっている。このため、計画図(右下)に書かれている雪ヶ谷駅(終点)と最も新しい1/1万地形図「自由が丘」(左上)に追記されている雪ヶ谷(初代)駅とは、一見すると同じ位置のように錯覚してしまうが(特に左下の地形図とも見比べるとなおさら)、実は大きくずれているのである。にもかかわらず、右下端のほぼ同位置にあることをもって初代雪ヶ谷駅の位置を特定したのではないかと推察されるわけである。
上図が国分寺線第一期計画図の右下端を拡大したものだが、この図の初代雪ヶ谷駅の位置と、アルファベット入りでほぼ現代の地形図に初代雪ヶ谷駅等を追記した図と比較すると、何となく同じ位置にあるような錯覚を覚える。「鉄道廃線跡を歩く VII」においても、初代雪ヶ谷駅をこの位置にした根拠は語られていないが、この3図を比較検討した上での関田氏の推測ではないかと私は考えた次第である(関田氏本人に伺うのが手っ取り早いが、何で誤ったのかとは聞きにくい)。
[追記]
もう少し、錯覚を覚えるという部分を詳しく説明しよう。
このように両図を並べ、中原街道から初代雪ヶ谷駅の蒲田寄りに通る直線道路を赤線で示した。一見すると同じ道路のような錯覚を覚えるが、計画図にある直線道路は現在、存在していない。雪ヶ谷駅が開設した当初に一時的にあっただけで、周辺が耕地整理組合によって区画整理された時に消えてしまったのである。しかし、両図を並べてみるとわかるように、若干角度はずれているが同じ道路のように見え、ここから初代雪ヶ谷駅の位置を特定したのではないだろうか。また、中原街道北西側(図では上側)の細い道路も同じだという先入観で見れば、何となく同じように見えてしまうような気もする。とはいえ、同じ道路でないことは、線路と中原街道との接近具合でも確認できる(拡幅はされたが曲がり具合はそのまま)。
[追記終了]
ここで、最近見つけた新資料(私にとっての)を確認してみよう。
上図(一部を抜粋)は「第参期線 池上電気鉄道線路平面図」とあるように、池上電気鉄道が当局に提出した第三期線の計画図面である。第三期線とは、雪ヶ谷~五反田間(ただし、大崎広小路~五反田間は現在の路線とは異なり、再度申請・免許されている)を指し、言うまでもなく第二期線の雪ヶ谷駅までは既に開業していたため、この図における雪ヶ谷駅の位置は正しいものと考えられる。では、当該部分を拡大してみよう。
拡大してもわかりにくかったので、私の方で一部文字を追加した。「三期工事起点3マイル72チェーン地点」は、第二期工事までに施工完了したところで、雪ヶ谷駅終点からわずかに先となっている。そこから、中原街道に沿う形で第三期線の直線が引かれている。途中4マイル地点に◎が付いており、ここまでの距離は工事起点から8チェーン(= 4マイル ー 3マイル72チェーン。1マイル = 80チェーン)なので、メートル法に直せば約161メートル(1チェーン = 20.1168メートル)であり、さらに進むと斜めに道を横断、すぐにもう一本道を渡って崖地を越えるようになる。ちょうど上図の右端辺りに線が複数入っているが、ここが崖地であり、「4マイル地点」とある「点」の字の右にある道路が、いわゆる山裾道でこの道の右側にあたる部分が崖下となっている。工事起点から4マイル地点までの距離が約160メートル程度なので、4マイル地点から崖下に第三期線がかかるまでの距離はおよそ130メートル程度となる。合わせれば、工事起点から崖地にかかるまで約290メートルの距離があると計算できる。
(参考までに崖地にあたる部分をゼンリンの地図で場所を示しておく。)
さて、これを現代の地図にあてはめて、崖地(山裾道の北側)から約290メートル雪ヶ谷方向に戻ってみるとどのあたりになるのだろうか。そう、現在の雪が谷大塚駅のホームにあたる場所にまで戻ってしまうのである。また、この計画図に関田氏のいう初代雪ヶ谷駅をはめ込むと、4マイル地点よりも先に駅があったことになり、第二期工事までに開業した雪ヶ谷駅であるにもかかわらず、駅の場所は第三期工事区間に存在してしまうことになる。これは矛盾どころかあり得ないとなるのは、言を待たないだろう。
それでは、航空写真も参考にしながらまとめに入ろう。
「回想の東京急行 I」並びに「鉄道廃線跡を歩く VII」では、初代雪ヶ谷駅は石川台1号踏切際(蒲田寄り)にあったとしているが、これは当Blogの「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」という記事で、古地図等を参照すると誤っているのではないかと指摘したが、今回はさらにそれを補強する根拠として、「第参期線 池上電気鉄道線路平面図」に記載されている雪ヶ谷駅の位置や、第三期線の計画線を検討し、どう考えても石川台1号踏切近く(山裾道そば)に初代雪ヶ谷駅は存在しないと確認した。
そして、関田氏が石川台1号踏切近くを初代雪ヶ谷駅としたのは、「鉄道廃線跡を歩く VII」中の新奥沢支線の記事に掲載した、3枚の年代別比較地図から類推したのではないかと推測した。あのように並べてしまうと、確かに勘違いしてしまう可能性が生ずるのはやむを得ないが、街区パターンが現在とは異なっている場合、よく気をつけて確認しないとこのようなミスを犯しかねない。また、同じ縮尺の地形図であっても、初版が戦前のものと初版が戦後のもの(都市計画図を縮小編纂)とでは、測量方法等の違いから微妙なずれが生ずることも少なくない。
とはいえ、実はまったく別の典拠があって、初代雪ヶ谷駅を石川台1号踏切近くとした可能性もある。やっぱり著者に聞いてみるしかないのだろうな(苦笑)。
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