ついに昨日(15日)、神宮球場において東京ヤクルトスワローズのバレンティン選手が日本プロ野球シーズン最多ホームラン記録を更新した。実に1964年(昭和39年)からの記録更新となり、ほぼ半世紀近いそれは大きな注目を浴びている(ただし国内に限る)。打たれたのは、阪神タイガースの榎田投手。VTRで見た限りだが、お誂え向きの投球とはいいつつも、それを逃さず仕留めたバレンティン選手を流石というほかない。この調子でいけば本塁打記録はもちろんのこと、三冠王もいけるのではないかといった印象だ。
というわけで、今回はほぼ半世紀ぶりに更新された日本プロ野球における本塁打記録の歴史を振り返ってみたい。まずは、歴代最多記録とそれを更新した記録を列挙しよう。
2本 1936年(昭和11年) 藤村 富美男(タイガース)
古谷 倉之助(金鯱)
山下 実(阪急)
4本 1937年(昭和12年)春 中島 治康(東京巨人)
松木 謙治郎(タイガース)
6本 1937年(昭和12年)秋 高橋 吉雄(イーグルス)
10本 1938年(昭和13年)秋 中島 治康(東京巨人)
20本 1946年(昭和21年) 大下 弘(セネタース)
25本 1948年(昭和23年) 青田 昇(読売)
川上 哲治(読売)
46本 1949年(昭和24年) 藤村 富美男(大阪)
51本 1950年(昭和25年) 小鶴 誠(松竹)
52本 1963年(昭和38年) 野村 克也 (南海)
55本 1964年(昭和39年) 王 貞治(読売)
57本 2013年(平成25年) バレンティン(東京ヤクルト)
日本プロ野球の歴史は、東京巨人軍の創設をもって始まるというべきだが、たったの1チームではリーグ戦などを行うことができず、各地に起こったプロ野球チーム(当時はプロ野球というのではなく職業野球と称した)によってリーグ戦が行われた1936年(昭和11年)をスタートとしていいだろう。この年の最多本塁打は2本で、試合数が少ないにしてもまだまだプロのレベルそのものが高くなかったというべきかもしれない。しかもいわゆる柵越えではなく、ランニングホームランが大半を占めていた。
戦前までの最多記録は、1938年(昭和13年)における中島治康(東京巨人)選手の10本で、わずか40試合制でのものであり、その後、春秋2シーズン制から1シーズン制になったにもかかわらず、この記録は破られなかった。それは戦争の色が濃くなるに連れてボールの質が悪くなり、まったく飛ばないボールになったという側面もあるが、40試合で10本塁打というのは今日視点から見ても多いのは間違いない。
この記録が破られるのは、戦後すぐの1946年(昭和21年)。復活したばかりのプロ野球に、彗星の如くデビューした大下弘(セネタース)選手による20本である。10本から20本と倍増したが、この年はシーズン105試合制であり、中島選手の40試合制で10本と比べれば比率としては低かった。だが、戦前と戦後のプロ野球人気は雲泥の差があり、その魁となった大下選手の活躍は大きなものがある。大下の青バット、川上の赤バットは、戦後間もない子供たちの心を鷲掴みにしたのだった。
本塁打記録を異次元レベルに移行させたのは、1949年(昭和24年)の藤村富美男(大阪)選手だった。昭和11年に自らが記録した最多本塁打記録(そんな意識は当時なかっただろうが)を破られてから12年。物干し竿と称された長いバットを振り回し、打ちも打ったりの46本塁打。137試合制での実現は、1試合あたりという点からも戦前の中島選手の記録を打ち破るものであった。
この年は46本の藤村選手を筆頭に、39本を打った別当薫(大阪)選手、37本を打った西沢道夫(中日)選手など、それまでの25本を上回る選手が続出した。なぜか。やはり、それは飛ぶボールにあったというしかないだろう。戦後からのチーム最多ホームラン数を見れば、
- 1946年 中部日本 46本
- 1947年 東急 45本
- 1948年 読売 95本
- 1949年 大阪 141本(他、中日、大映、読売が100本超)
と1948年(昭和23年)あたりから増加傾向が見えるが、1949年(昭和24年)のそれは尋常ではないことがわかるだろう。打撃技術の向上だけではない何かがそこにはある、と断言できる。
1949年末、人気が沸騰するプロ野球は、新規参加球団加盟問題から2リーグ分裂という危機が訪れる。そして選手の大量引き抜き問題などが同時並行的に起こり、1リーグ8球団制から2リーグ15球団制となって1950年(昭和25年)のシーズンが開幕する。一気に7球団も増えたことによって、選手層が薄くなる球団(ほとんどアマチュアレベルの球団もあった)ばかりとなって、打撃優位の展開となる。それがプロ野球史上初めてのシーズン50本塁打超と下地といっても過言ではないだろう。
1950年セ・リーグを制したのは、大陽ロビンスを母体とし、選手の大量引き抜きによって厚みを増した松竹ロビンスで、ここに所属する小鶴誠(松竹)選手が51本塁打を記録。飛ぶボールに加え、選手(特に投手)レベルの低下、狭い球場(松竹のホームであった衣笠球場は両翼90メートルなかった)の増加などなどもあって、この年のセ・リーグは8球団のうち6球団までもが100本塁打超となり、松竹ロビンスに至っては前年の大阪タイガースの141本をさらに上回る179本となった。もっとも最小は国鉄スワローズの66本であり、誰でも飛ぶわけではなかった。どちらにしても、この小鶴選手の51本はしばらく日本プロ野球記録として君臨することになる。
これを破ったのは、パ・リーグの強打者 野村克也(南海)選手で、ちょうど50年前の1963年(昭和38年)に小鶴選手を1本上回る52本の新記録を達成する。この52本目は最終戦(150試合制)の最終打席で放ったものだった。このため、小鶴選手よりも10試合以上多い中での達成は、一部からけちを付けられたものとなる。
この52本を翌年上回ったのが、今回破られるまでの49年間にわたって君臨し続けた王貞治(読売)選手の55本である。一本足打法を本格採用してから3年目の記録であり、新記録となった53本目は129試合目での達成であった。名実共に新記録であり、月見草と自ら称した野村選手の記録はわずか一年足らずで終わったのである(パ・リーグ記録としては2001年に近鉄のローズ選手に抜かれるまで38年間維持した)。
それから49年。ついに東京ヤクルトのバレンティン選手によって55本は破られた。過去に並ぶものはあっても抜かれることはなかった記録が、セ・リーグの選手によって破られたのも縁だろう。そんなことを思いつつ、今回はここまで。
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