前回の続きです。
96ページ「大崎広小路」
「広小路」とは、江戸時代大火による延焼を食い止めるために、特に広く作られた道路を指す。東京ではこの大崎広小路とともに、上野広小路が有名だ。
広小路の説明として誤りではないが、ここで江戸時代の由来を語っても仕方があるまい。大崎広小路の広小路は、単に広い道路という意味だけに過ぎない。この広い道路は関東大震災後の都市計画に基づく環状6号線であり、当該地が区画整理(耕地整理)を行った際、併せて道路用地を確保したために生まれた広小路である。言うまでもなく、語源そのものから逸脱して利用される語に古い理由を付すという、歴史音痴がここでも顔を出している。加えて、大崎広小路と上野広小路と駅名に採用されているものだけを有名というのも、視野の狭いマニヤ的な印象しかない。(もちろん、都市計画道路の幅員が広いのは防火帯・緩衝帯という意味はある。)
97ページ「戸越銀座」
東京都中央区の旧町名尾張町(現・銀座四丁目交差点付近)にある「銀座」にちなみ、全国にはその土地その土地の華やかな商業地域に「○○銀座」という名をつけることがあるが、戸越銀座は全国に300近くある、「ご当地銀座」の中でも最古のものであるという。
著者は銀座という町名が明治初期から存在していることを知らないのだろうか、としか思えない歴史音痴ぶり。当blog記事「東京都中央区における「銀座」の拡大」でふれたように、銀座の拡大は尾張町と称するエリアも併呑するが、服部時計店に象徴される銀座四丁目交差点は、明治初期から銀座四丁目(四町目)と称していた。だからこそ、東京市電の停留所等も銀座四丁目を名乗っていたのだ。単に古地図を眺めた感覚(印象)でこのような表記としたなら、地図の読み方はもちろん、歴史的文脈の中での位置づけすらかなわない愚かなものとなるだろう。
97ページ「荏原中延」
駅名は駅の所在地が、当時荏原郡中延町にあることから。ただし、当初は「中延」という駅名での開業が予定されていたところ、これよりもひと足早く開業した現在の大井町線(当時は目黒蒲田電気鉄道の路線であり、池上線を所有する池上電気鉄道とは別会社)に荏原町駅と中延駅ができたことから、これに対抗して現行の名前がつけられたという説もある。
これもひどい。今日に言う地方自治体(市町村)の名と地方自治体に属する町(大字など)の名を、「町」という字が同じであることから混同したとしか読めない致命的な誤りである。似たような例は他文献でも見たことがあるので、無批判引用かあるいは単に無知であるのだろう。まず、駅の所在地は開業時は東京府荏原郡荏原町大字中延であって、中延町ではない。昭和7年(1932年)、この地が東京市に編入された際には東京市荏原区中延町となるので、これと混同したとしてもひどすぎる。また、細かいが目黒蒲田電気鉄道とあるのは間違いで、正しくは目黒蒲田電鉄。電鉄は略称であるだろうが、正式社名がこの略称を採用しているので目黒蒲田電気鉄道とはならない。一方、池上電気鉄道はこれが正式名称であるので、池上電鉄とするのは正式名称の略称なので問題とはいえない。目黒蒲田電気鉄道という表現は文字どおり「蛇足」である。
98ページ「旗の台」
ただし、乗り換えの方面によっては階段を上下しなければならない手間は解消されていない。
地元の方ぁ~。今もそうですかぁ~? はい、そうではありませんね。かつては池上線の下りホーム(蒲田方面)から大井町線の下りホーム(二子玉川方面)へ行くのに、階段を登って大井町線の上りホームに出た後、そこから反対側の下りホームに向かうため、階段を降りた後もう一度登らなければならなかった。しかし、現在ではこのようになっている。歴史ではなく、鉄道・駅設備に関する項目での誤りは避けてほしかった…。
98ページ「長原」
駅周辺には長閑な農地が広がっていたが、戦後になると、住宅地として急速な発展を遂げることになる。
また歴史音痴の妄想が始まりました。戦前を何だと思っているのでしょうか。戦前生まれではない私でも、調べればわかることはたくさんある。以下に、昭和19年(1944年)に撮影された長原駅周辺の航空写真をあげておこう。馬鹿も休み休み言えとしかならない…。
ご覧のとおり市街地化しており、空地に見えるところも配水場などがあるところであって、空地率は現在とほとんど変わらない。このあたりの市街地化は、昭和10年(1935年)頃には完了していたのである。
99ページ「洗足池」
駅は池の南側、徒歩5分の場所に建設され、構内踏切を備えた相対式ホームを設置。
今日の中原街道の道路幅員と、歩道橋を渡らなければ池までたどり着けない状況からは徒歩5分という表現はわからないでもない(実際、著しく足が衰えているのでなければそんなにはかからない)。しかし、文脈から昭和2年(1927年)に開設された当初の話をしていることから、徒歩5分という表現は明らかにおかしなものとなる。というのは、当時の中原街道の幅員は約6メートルほどしかなく、当然歩道橋などありはしないので、立体構造となっていない駅から池までは直線で50メートルもない……ということは、かかっても1分弱。走って行けば10秒もかからない距離といえよう。現在の状況からしか想像できない、稚拙なレベルの文だとなるのである。
99ページ「石川台」
駅の近くを流れる呑川(のみがわ)が、昔は石川と呼ばれていたことが地名となり、そのまま駅名にも採用されている。
せっかく呑川に「のみがわ」とカナを振ってくれているが、正しくは「のみかわ」。
100ページ「雪が谷大塚」
1923(大正12)年5月4日に開業した「雪ヶ谷」駅と、1927(昭和2)年8月19日に開業した「調布大塚」駅が至近の距離にあったため、両駅を統合する形で1933(昭和8)年6月1日に現在地に開業。当時の駅名は「雪ヶ谷大塚」で、1966(昭和41)年1月20日に、現行の駅名に改められた。
誤りの定番。東急電鉄さん、早く公式で誤りを正してくださいね。さて、ここの説明は基本「東京急行電鉄50年史」からのまんま引用であり、著者も無批判に掲載しているだけと見られるが、実は雪ヶ谷駅(二代目)と調布大塚駅の距離を改札口ベースで比較すると、調布大塚駅と御嶽山前駅との距離とほとんど変わらない。つまり、雪ヶ谷駅と御嶽山前駅の中間にできた調布大塚駅であるが、利用客にとっての実距離は雪ヶ谷駅からも御嶽山駅からもほとんど変わらないため、一方的に雪ヶ谷~調布大塚間が至近だと決めつけられないのである。そして、合併云々の経緯は当blog記事「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」をはじめとして、数多書いているので参考にしていただきたい。
また、同時代資料として東京市大森区(現在の大田区を構成する部分)が編纂した「大森区史」によれば、昭和11年(1936年)の乗降客数一覧に雪ヶ谷駅と調布大塚駅のそれぞれが記載されていること。さらに799ページの「雪ヶ谷駅──田園調布駅」間のバス路線について言及した箇所には、「最初は調布大塚駅を起点としていたが、同駅廃止後現在の雪ヶ谷駅に移ったものである」とあることから、調布大塚駅の廃止はどんなに早くても昭和11年(1936年)以降であり、かつ雪ヶ谷駅と合併して雪ヶ谷大塚駅などに改名してもいないことがわかる。
100ページ「雪ヶ谷~国分寺間新線計画の迷走」
この間、すでに当初の資金は尽きているはずなのに、多くの路線免許を申請し、その中に、雪ヶ谷~国分寺間21kmの計画が、1927(昭和2)年12月6日に免許が交付されていた。距離の長さもびっくりするが、このコースも頭をかしげるもので、私鉄新線が放射状に開通する中、各線を斜めに串刺しするように設定されていた。当初、第一期を雪ヶ谷~調布間で申請、調布の位置は目蒲の開発した田園調布駅の北東200m程の所に割り込むように予定されていた。(中略) 開通間もなく、将来を見越した複線も早期に単線化した。計画性のなさが結果的に池上電鉄の寿命を縮めることになった。
このコラムは関田克孝氏によるもので、駅プロフィールと異なりよくできているのだが、いかんせん東急至上主義というか東急史観と呼ぶべきものに立脚しており(東急OBだから当然だが)、誤りとは言えないが別の視点として指摘したい。
まず、「すでに当初の資金は尽きているはずなのに」というが、高柳体制から川崎財閥資本をバックにした体制変化を考慮に入れているのか疑問である。そして「距離の長さもびっくりするが」というが、これとて池上電気鉄道の目的(=田園調布付近への接続と二子玉川線への牽制)を慮れば、字面からだけの問題ではないことは自明であるだろう。さらに「このコースも頭をかしげるもので、私鉄新線が放射状に開通する中、各線を斜めに串刺しするように設定されていた」というが、成業の成否はあるものの、放射状の鉄道網が飽和状態にあった昭和初期において環状方向の鉄道敷設計画は当然のものであり、池上電気鉄道以外にも山手急行電鉄など数多くの計画があった。それどころか目黒蒲田電鉄自身、成城学園前までの計画を持っていたのである。
最後の「計画性のなさが結果的に池上電鉄の寿命を縮めることになった」というのは言いがかりも甚だしく、五島慶太による株式買収の結果で敵対的に吸収合併したに過ぎず、それさえなければ陸上交通事業統制の時代に入るまで生きながらえていただろう。
端的に言えば、池上電気鉄道を敵対的買収した後ろめたさが、このようなマイナス要因をあげつらう=合併してやったことで助けてやった的な善意の行動として表現されるのが「東京急行電鉄50年史」が執筆された昭和40年代の空気であり、まだ合併して数年の「東京横浜電鉄沿革史」には生々しい表現が一切出てこないのとは対照的である。著者の関田克孝氏も、またそういう時代の人なのだ、と言えるだろう。
102ページ「千鳥町」
開業時の駅名は「慶大グランド前」。1936(昭和11)年1月1日に、現行の駅名に改称された。現在の駅名となった「千鳥町」の名は、この町が1932(昭和7)年に旧来の東調布町から分かれた時に、初めて生まれた名前といわれている。なお、開業時の駅名は『池上町史』では「光明寺」とされている。「光明寺」駅は、この近くに1923(大正12)年に開業したものの「慶大グランド前」駅の開業に伴って廃止になったとされ、「光明寺」と「慶大グランド前」のどちらを当駅のルーツとするかは、解釈次第といえよう。
これも歴史音痴炸裂もの。だが、その前にまずは定番の訂正から。慶大グランド前は、慶大グラウンド前が正しい。そして光明寺駅は池上町史のみならず、基本史料ともいえる東京横浜電鉄沿革史にもしっかり記載されており、誤りの巣窟「東京急行電鉄50年史」の悪影響が表れた結果だと言える。光明寺駅は初代慶大グラウンド前駅と併存しており、移設して二代目慶大グラウンド前駅となった際に廃止されたことから、千鳥町駅のルーツは当然慶大グラウンド前駅となる(二代目慶大グラウンド前駅がかつての光明寺駅のあった場所に移設して千鳥町駅となった)。解釈次第という、でたらめで決まるものではない。
では、歴史音痴に起因する致命的な誤りを指摘しよう。それは、「現在の駅名となった「千鳥町」の名は、この町が1932(昭和7)年に旧来の東調布町から分かれた時に、初めて生まれた名前といわれている」とあるところで、荏原中延駅の誤りでも指摘したように「今日に言う地方自治体(市町村)の名と地方自治体に属する町(大字など)の名を、「町」という字が同じであることから混同したとしか読めない致命的な誤り」がここにも見えるのである。つまり、東調布町は地方自治体としての町名(市町村の名)であり、千鳥町(正確には調布千鳥町)は東京市大森区の町名(市町村に属する町の名)であることから、分離して(分かれて)云々というように並列で扱う名ではないのである。また、千鳥という名については、千鳥窪(あるいは千鳥久保)という字名から採用されているので初めて生まれた名前でもない。とんでも本を参照したのかは不明だが、短い文によくぞこれだけでたらめを入れたものだと感心する。こんな文だから、説明タイトルにも「駅名は東調布町からの分離に際して採用」という馬鹿げたものになってしまい、恥の上塗り状態だ。
なお、千鳥町は改名当初から「ちどりちょう」と読むが、これは目黒蒲田電鉄の誤りに起因する。理由は、調布千鳥町の読みは「ちょうふちどりまち」であり、これを知っていればわざわざ独自の読みを採用するとは考えられないからである。
102ページ「池上」
その後、池上電鉄の線路は五反田方面に延伸されて線路も複線化され、これに併せてホームを雪が谷大塚方向に移設。広い駅前広場も誕生している。
複線化工事は池上電気鉄道が昭和2年(1927年)に行ったものだが、駅の移設は東京横浜電鉄時代の曲線改良工事にあわせて施工されたもので、その間、15年近い歳月が流れている。わかっているのかな、著者は。
103ページ「蓮沼」
元々蓮沼村を名乗っていた地域であるが、明治末期からは多摩川沿岸の干拓が行なわれ、広大な平坦地が生まれたという。
何を以て「明治末期からは多摩川沿岸の干拓が行なわれ、広大な平坦地が生まれた」としたのかわからないが、明治40年(1907年)及び明治43年(1910年)の多摩川の氾濫によって治水事業は進んだが、干拓事業が行われたという話は聞かない。しかも大字蓮沼(旧 蓮沼村)あたりであれば、大正期以降の耕地整理事業による土地改良が大きいが、時期も名前も一致しない。何を言いたいのだろうか(苦笑。まさかと思うが、明治期まで蓮が浮かぶような所だと思っているの? 享保以降の新田開発を知らないのだろうか)。
というわけで、池上線部分はかなり長くなってしまった。残りは
後編ということで、今回はここまで。
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