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2013/04/03

コメント

素晴らしいの一語に尽きます。鳥瞰図は名所絵図的ロマンをかき立てる点で、単に距離を測る地図的な目的よりも美術品的価値に重きが置かれているからです。昔輸入文具を取り扱ったことがありますが、コピーには写らない立体図用(パース)方眼紙のカタログを見たことがありますが、鳥瞰図にも似たようなコンセプトがあることを知り大変参考になりました。

ヤフー知恵袋で、妙な問答を発見してしまいました。


現在の東急「旗の台駅」は、昭和初期には目黒蒲田電鉄「東洗足駅」だったそうですが、その当時の駅舎の場所は現在のどの辺りなのでしょうか?
補足として「太平洋戦争(建物(家屋)強制疎開)以前の場所でお願いします。」
との質問に対する ベストアンサーとして

「このHPを参考してください
http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/
基本的には、ホームは動いていないです。」

との答えが。
え?
このリンク先は、ココなんですけど。。。。

「基本的にホームが動いていない」って、どういうことでしょう。
位置だって思い切り違うんですけどね。

追記
灰色で低地が示されており、等高線とは違った趣があり、馬込あたりの俗に言う九十九谷の様子が窺えますね。

>ヤフー知恵袋で、妙な問答を発見してしまいました。

簡潔に。
ネットの情報(に限らずですが、確率としてはネット上の方がはるかに高い)は真偽入り交じっており、ましてや程度の低いQ&Aのようなものを鵜呑みする方がどうかしてます。
(それなりの信用がされているWikipediaですら…。ただし、素晴らしいものも数多あり、その判断は閲覧者に依存しますが。)
本件については、単に質問者並びに回答者のレベルがその程度、だということです。
よって、取り上げる価値もない、となるでしょうか。
以上。

私も見てみましたが、非常に精緻で驚きました。

これを見ると、なぜある取引先(溜池山王エリア)のオフィスビルが、地震で大きく揺れたのか(オフィスの中がぐちゃぐちゃになっていました)、良くわかります。つい百数十年前までは水の上でしたものね。

はひ様
資料は忘れましたが首相官邸がある台地と溜池では、大震災のときに震度で2レベル程の差があったと記録されていましたが、いくら杭を打っても元池では保持力が足りないので危険度があることは否めません。他方新橋から東京駅までのレンガ作りの高架線は震災でもクラックが殆ど無かったのはお堀の上に多数の杭を売った結果だと記録に残っていますが、真面目に施工すればそこそこのものができるようですね。明治時代の技術者に脱帽です。

木造院電マニアさま

私、ゼネコンに勤めておりますが、会社の技術部に江戸時代からの古地図、明治以降の陸測の地形図が関東地方は年代別に全部揃っておりました。過去の地形、川だったのか池だったのかも重要ですが、怖いのはお寺です。特に関東大震災、東京大空襲で、お寺と檀家ごとなくなっている地域があるのですね。それを知らずに工事をやって、人骨が出ると、まず警察、事件性がないと、教育委員会の調査、で遺跡ではないことがわかると、区か都で無縁仏として合葬。
時間がかかって大変です。明治時代と、関東大震災直後の建物、地下構造物はとにかく訳も分からず頑丈に作ってあります。私の行った小山台高校も唱和2年ころの竣工でやたら柱が太くびっくりしました。

デハ3300様
実は私の祖父は失業した貧乏士族でして、毛利のお殿様が経営する日本鉄道に鉄道土木技師として拾ってもらい、最後には大倉組の総監督として台湾総督府の鉄道建設に従事しました関係で、東京駅の完成に関する写真帖を祖父から貰ってそこにくい打ちのことが書いてありました。確かに泰明小学校のようにやたらと太い柱が使用されているので解体工事では大変苦労されていると御察しします。銀座付近でも時代にそぐわない震災直後の老朽ビルの解体が行われていますが、骨ではなく小判でも出ればいいのですが、解体には苦労されていると思います。3.11地震直後に国会図書館に行きましたが、さすがに太い柱の構造に成っていますが、一部の図書がラックから落ちて閲覧不能となっていましたので、台地でもかなりの揺れがあったのでしょう。振幅だけではなく周波数も問題となるとのことですので、設計も大変ですねl。

木造院電マニア さま

大倉組土木というと今の大成建設のルーツですね。実は私空調設計施工が専門でして、構造設計や土木構造物(橋梁や、トンネル、地下鉄)などは専門外なのですが、最近の建築基準法では、ある程度の亀裂や、崩壊は人名に影響がない範囲で許容差得ています。明治時代や関東大震災直後のなんだか訳も分からずとにかく丈夫に、という設計思想ではコストが上がりすぎるという意見があるようです。また改善されつつありますが、阪神淡路大震災のあと、各ゼネコンは、地震の波形、振動周波数などを自社の耐震設計プログラムに反映させているはずです。それでも若干の小破は許容しているはずです。この辺が技術屋の、想定内、想定外の言い訳にもつながるわけですが。私の空調分野でも東京の設計用外気最高温度は33.4度です。気象庁のデータを使うと明治時代後半に40度を超える記録があるのですが、それを使うと、コスト増になるので殆どのゼネコン、設計事務所ではこの、学会で定めた温度を使っていますが、近年都市部での温度上昇を考えると見直しがあるかもしれませんね。
そう考えると、東急3300や3450(510系でしたっけ)は丈夫な電車だったと思います。おそらく、過負荷に耐える能力は、8000系などより上なのではないかと思います。とにかく池上線を1M2Tでなんとか走るのですから。最も10年ほど前市が尾の変電所が焼損したとき、8000系も1ユニットカットで鷺沼、中央林間のあいだを50KMくらいでのろのろ走っていました。

デハ3300さま
私の祖父は現在でもトンネル工事などで現場を渡り歩くフリーのエンジニアで、塾のようなところで書生から這い上がったようでしたので、初孫である私には特別優しかった様に記憶しております。電車も戦前は山陽線の脱線事故以後、鋼鉄製になりましたが、頑丈にしたために自重が40トン近く迄なったように記憶しております。今はエネルギー節約のために軽量化に重点が置かれていますがこれは際限のない神学論争となりますのでこれ以上論議するのを止めます。3300形は戦争で資材が不足していましたので、新造車の代わりに木造院電の車台を活用したものですが、以外に保ちましたね。最初の鋼鉄車のモハ30は昭和初期の製造でしたが、昭和18年頃にはかなり車体がきしんでいました。発進停止が頻繁な電車はGが掛って車体を劣化させる速度が客車と比較して早いようです。
市ケ尾の変電所の落雷のあった年は雷が多く、停電で多機能電話が使用できなくなって苦労したことを憶えています。避雷針は作動したようですが、地絡のルート間のポテンシャルの差で半導体がパンクしたという話です。堀江もんではありませんが、万事予測不能というのが現実ですね。

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