今日は3月11日。各地に激甚的な災害をもたらした東日本大震災だが、やはり福島第一原発事故の存在があったことが、この災害への事後対応を大変難しいものにしていると感じている。もちろん、マスコミの喧伝する被災者の方々のご苦労は大変なものであるのはわかるのだが、災害規模の大小であって東日本大震災で被害を受けていなくても、他の災害で同様の状況に置かれている方々は多々いらっしゃる。しかし、そういう方々は継続的に注目(取材)されることは善し悪しは別にしてほとんどない。端的に言えば、ほぼ同時に災害を受けた人数の多寡に過ぎないのだ。
なので、前回にも記したように被災者の方々の動静については、私にとって興味の対象ではない。絆云々言う方もあるが、言い方を変えればわざわざこういう主張をせざるを得ないことはどういうことか、ということである。およそ2500年ほど前の中国で、なぜ孔子が注目される存在となったのか。その後の理想論(儒学・儒教)はなぜ流布されるようになったのか。春秋時代に礼節を重んずるとは何を意味するのか。同様の例だと思う。
また、復興予算や義援金があまり執行されていないという話も聞こえてくる。マスコミなどが一所懸命に訴えるのは、予算等の使途が制限されていて地元のきめ細かい要望に応え切れていないという批判である。確かに一理あるが、難しいのは「きめ細かい要望はわがままと紙一重」ということである。個人個人の要望は多岐にわたり、生活の基盤を立て直そうというのであれば、まさに各々の個別の事情に深くかかわってくる。自明だが、個人個人ばらばらであるのが当たり前で、画一的なものでは要望は満たされずそれが不満となっていくわけである。つまり、どこまで要望を満たせばいいのかという斟酌の見極めが困難であり、要望する側も必死であることからどうしても「きめ細かい要望はわがままと紙一重」とならざるを得ない。
だが、復興予算や義援金というものは、個人個人の欲求を満たすものではなく、一様に不平等なくその目的に沿って活用されるという原則を曲げるわけにはいかない。要は、生活の基盤を取り戻すにしても、程度問題だが完全に元通りにすることなど不可能であり、ここに乖離が生まれるのは必然と言ってもいい。家族5人暮らしと独身1人暮らしとでは援助に差があるのは当然だが、アパート暮らしの人と500坪の豪邸を住まいとしている人との差は認められるものだろうか。これは極端な例だが、老若男女それぞれでも考え方は異なるだろう。リスタートをし易い人とそうでない人、という視点からでもそうだろう。個人の事情は実に様々だ。
被害を受けた方々は「人ごとであってほしくない」という。これは東日本大震災に限らずだが、自身が不幸に陥っていることに対する慰めであるだけでなく、同じことを繰り返してほしくないということもあるだろう。まったくそのとおりであり、だからこそ福島第一原発事故の検証や今後のあり方、津波警報の出し方や観測方法、いんちき地震予測の見直しなど、数多の課題のほとんどは突きつけられたままだ。そういったことにどう取り組んでいくのか。被災地や被災者の動静もそれなりに必要だが、もっと大事なことがあるだろうとおもいつつ、今回はここまで。
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