田園都市株式会社が、理想的住宅地案内と共に田園都市の全貌を地図上にあらわしたものが「田園都市全図」であるが、今回も前回並びに前々回に引き続き、その一部分をクローズアップして見ていきたい。ターゲットは、これまで採り上げた洗足住宅地と多摩川台住宅地と異なり、住宅地として分譲されずに一括で国に売り払われた大岡山住宅地(予定地)である。歴史に If は…とも言われるが、もし関東大震災がなかったなら大岡山住宅地としてそのまま分譲されていたであろう、この住宅地について見ていこう。
洗足や田園調布(多摩川台)と異なり、こちらは住宅地として分譲されていない(正確に言えば大学用地となった後に等価交換等によって再び住宅地として分譲されたエリア=大岡山駅北側がある)。よって、なかなかイメージしにくいとは思うが、現在も東工大(当時は東京高等工業学校。以下、すべて東工大と表記)の敷地となっているのは、中央を蛇行して流れる呑川と鉄道線路に区切られた左上の川沿いの部分(緑が丘地区)、呑川と線路で区切られた右下の部分(大岡山西地区ほか)のみで、緑が丘地区の南側や大岡山駅北東側は当初は東工大の敷地だったのだが、他地区との等価交換で住宅地となった部分である。また、この図には石川台地区が載っていないが、デフォルメされた図のために未掲載だったのか、それとも東工大のために田園都市株式会社あるいは目黒蒲田電鉄が買収したのかは未調査である。
このあたりを確認するため、昭和初期の1万分の1地形図から跡付けてみよう。最も大きな東工大のエリアは図中右上に確認できる大岡山駅北東側の部分で、コの字形の建物が多数確認できる。これらは仮設的な建物で、あくまで暫定的な用途として建設された。次に目立つのは、大岡山駅南西に位置する本部などがあるエリアで、今日にいう大岡山東地区にあたるところとなる。続いては、図の左下にある呑川の西側かつ、鉄道線路の南側にあるところ(3185や3186と書かれている部分)。ここもかつては東工大だったところが、等価交換等で住宅地等として再分譲されたところである。
仮に、大岡山住宅地が分譲されたとすると、ここも洗足や田園調布のように町村境を買収しているため、馬込村、池上村(以上、現 大田区)、碑衾村(現 目黒区)、玉川村(現 世田谷区)と実に4つ(このうち玉川村部分については大岡山というよりは奥沢といった方が適切だが)にまたがっている。
このようにして見ていくと、大岡山住宅地は敷地形状がよくなかったことで、体よく国に売り飛ばされた(蔵前の土地との等価交換)のではないかと感ずる。東工大自身も、田園都市株式会社を呑み込んだを目黒蒲田電鉄に対して、大学敷地としてまとまった形となるよう周辺の土地の買収を依頼し、必要に応じて等価交換等で対応していったのだ。それだけ敷地形状が悪かったという証左だとなるだろう。といったところで、今回はここまで。
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