東京都目黒区自由が丘に隣接する目黒区緑が丘。自由が丘は、自由ヶ丘学園という学校名から駅名に採用され、その後、東京府荏原郡碑衾町の大字として自由ヶ丘が正式に採用される歴史を持つ。町名(大字)改正運動やその前の駅名改称運動(衾から自由ヶ丘へ)など、劇的に盛り上がった運動があり、戦時中も自由という名を冠するのは時局に相応しくないなどの攻撃に晒されたりと、なかなかに深い歴史がある。一方、緑が丘の方は、由来も「緑が多かったから」などという安易な(失礼!)ものであることに加え、駅名の緑ヶ丘が中丸山から改称されたのは、既に東京市に合併され正式町名として目黒区緑ヶ丘となって以降のことであり、東京市に合併された際、緑ヶ丘が安易に採用された(緑が多く、自由ヶ丘の隣なので「丘」を拝借)ように思われたりもするが、事実はもちろんそうではない。
それを確認できる資料が、地元の新聞として1930年(昭和5年)に創刊された碑衾町報(月三回発行 一日、十日、二十日。購読料1か月20銭。一部10銭。碑衾町報社)の第四号(1930年11月10日発行)に掲載されている。この頃、碑衾町(現在の東京都目黒区の西半分)は町名改正問題(碑衾という名が読み難く新興住民から不評だったため、碑衾を改めるという一連の問題)で大きく揺れ動いており、この問題の是非が紙面を賑わせていた。そもそも碑衾町報自体が、この問題のために創刊されたと言っても過言ではないのだが、まずは当該記事を掲載し、引用してみよう。
区制を整理して二十三区となす
小字の改廃統一をなし
小字を区と改称今回の町名改正は単に碑衾町と言ふに止らず大字を全然廃止し更に小字の改廃統一をなし、新時代に適応せる町名を附す事になつたが区は全区で二十三区にして従来の一区二区と言ふ呼び方を改称して小字名を其儘区と改名するもので従来の碑衾町大字碑文谷字月光原等と言ふが如き煩雑を避け××町鷹番区何番地と言ふ最も合理的なる命名法であるが其の区の名称は殆んど従来呼び来つたものと大差はないが池ノ上は池上町と混同される怖れがあるのでこれを廃止し田園は田園調布に間違ふ憂ひがあるので西洗足となし稲荷山は平丸と改称する事となつたが従来の一区より十区迄を今回改称される区名に示せば左の通り二十三区である
一区 本郷区
二区 三谷区 鷹番区
三区 清水区 門前 唐ヶ崎区
四区 月光区 東区 向原区
五区 西洗足区 原区
六区 富士見台区 八幡区
七区 大岡山区 平丸区
八区 緑ヶ岡区 中根区
九区 宮前区 自由ヶ区 氷川区
十区 大原区 芳窪区 柿ノ木坂区
引用は、現在の漢字に改めた以外は旧仮名遣いのままとしたので、以下に現代文の調子に書き下し、区名の誤りを併せて正す。
今回の町名改正は、単に碑衾町を対象とするにとどまらず、大字を全廃し、さらに小字の改廃を行い、新時代に適応した町名として命名することにした。区は全部で23区とし、従来の一区二区という呼び方を改称して、小字名をそのまま区と改名するものである。従来の碑衾町大字碑文谷字月光原などというような煩雑さを避け、××町鷹番区何番地という、もっとも合理的な命名法とした。区の名称は、ほとんど従来のものと大差ないが、例外として池ノ上は池上町と混同されるおそれがあるのでこれを廃止し、田園は田園調布に間違う憂いがあるので西洗足とし、さらに稲荷山は平丸と改称することとなった。従来の一区より十区までを今回改称する区名にあらわせば、次の23区となる。
一区 本郷区
二区 三谷区 鷹番区
三区 清水区 門前区 唐ヶ崎区
四区 月光原区 東区 向原区
五区 西洗足区 原区
六区 富士見台区 八幡区
七区 大岡山区 平丸区
八区 緑ヶ丘区 中根区
九区 宮前区 自由ヶ丘区 氷川区
十区 大原区 芳窪区 柿ノ木坂区
以上のことから、1930年(昭和5年)11月時点で、既に自由ヶ丘と並んで緑ヶ丘が確認でき、その前年に自由ヶ丘駅が誕生(九品仏駅より改称)していることを考え合わせれば、概ね同時期に緑ヶ丘という名前が公式ではないものの、誕生していることがわかる。だが、そうなると大井町線の中丸山駅が当初から緑ヶ丘駅でなかった理由(中丸山駅の開業は1929年(昭和4年)12月25日)も考えねばならないが、これは後日の宿題としたい。また、興味深いのは「田園は田園調布に間違ふ憂ひがあるので西洗足」とするくだりである。当blogでも洗足田園都市について多くをふれているように、洗足は田園都市の元祖であるにもかかわらず、1930年(昭和5年)の時点で田園調布と紛らわしいとされてしまっている。田園調布駅が調布駅から改称したのは1926年(大正15年)1月であり、わずか4年ほどでこのような心配をされているのだ。また、西洗足というのは当然対になるのは東洗足で、既にこちらは駅名として存在(東洗足駅は旗の台駅の改名前)しており、田園都市(田園)というよりも洗足の方が通りがいいことを示している。と、これ以上続けると本論が何かわからなくなってしまうので、ここでいったん止めるが、いつ頃から緑ヶ丘と呼ぶようになったかについて少なくとも1930年11月まで遡ることが可能だと示して今回はここまで。
緑が丘の名前がすでに挙っていることは知りませんでした。大東京に編入される直前ですので宅地の価値を上げるために自由が丘の対比として地主により作り出されたものと思いますが、西洗足に至ってはあくまでも目黒区を中心とした観念で、洗足田園都市のかなりの部分が荏原区である事実に目を覆っているような印象を受けます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/09/18 15:42
お久しぶりです。。。 4年程度の間に、両地区の間にそこまでの形勢逆転があったのですね。駅名にしたか、しなかったか、の差でしょうか(住民が、どういう頻度でその言葉を口にするかどうかの差、とでも言いましょうか)。
投稿情報: はひ | 2012/09/20 23:18
コメントありがとうございます。
旧碑衾町の町会の歴史を辿っていくと、その名称から様々なことが見えてきます。緑ヶ丘や自由ヶ丘、そして洗足という名を冠したものは東京市合併以前から存在していますし、洗足を冠したものは3町会(無論、田園都市とは無関係)あるなど、その当時、何が流行していたのかよくわかります。
仰せのように巷間に語られるものが主流となるのは自明であって、地元が何と言おうとそうはならないことはよくあります(例えば洗足池と千束池)。田園調布の場合は、調布という既にメジャーだったものが近場にあったことで改名を余儀なくされた結果であり、一方の洗足は池上電鉄対抗上、洗足の名を下ろすことはできなかった事情もあったと見ます。それが第三者からは洗足と田園調布と定着した…と見えたのでは。
投稿情報: XWIN II | 2012/09/21 06:59
田園をつける必要があった側と、そのままの名前に固執せざるをえなたっか側。。。面白いですね。ありがとうございます。
投稿情報: はひ | 2012/09/21 08:46