1932年(昭和7年)10月1日、日本一の看板を大阪市に奪われていた(大正期に市域拡張によっていわゆる大大阪市になって以降)東京市がこの日を以ていわゆる大東京となり、名実共に日本一の都市に返り咲いた。大阪市と同様に隣接町村を合併する市域拡張によって、いわゆる大東京となったこの日、従来の15区に新たに20区が加わるが、どのような形で町村合併して区とするかは最後の最後まで揉めに揉めた。今回は、「主婦之友」九月号(雑誌の号数ルールにより実際は8月発行)の添付付録である「大東京名所繪はがき集」の索引図を見ながら、ぎりぎりまで揉めた内容について振り返ってみたい。
大変残念ながら、当時東京名所とみなされていたところは旧東京市内(上図では点線内)ばかりで、新市域ではわずかに4か所(渋谷区及び大森区に2か所ずつ)しかないために、35区とはいいながら名前が見えない・見にくいところがあるのはご容赦願いたい。
では最初に、実際に成立した新20区と上図に掲載されている新市域と比較してどこに異動があるかを列挙しよう。
- 千住区とあるのは、足立区となる。
- 寺島区とあるのは、向島区となる。
- 亀戸区とあるのは、城東区となる。
- 三河島区とあるのは、荒川区となる。
- 巣鴨区とあるのは、豊島区となる。
この雑誌が発行されたのは、1932年(昭和7年)8月であり、編集期間を考慮に入れればその前月あたりが締切りかと思うが、施行3か月ほど前の時点からの異動としては相当に多いとなるだろう。以上の他に気付くところとしては、
- 瀧野川区が描かれていない。(王子区に取り込まれてしまっている。)
- 練馬区が描かれている。(最終的には板橋区に統合される。戦後になって練馬区が分区。)
- 葛飾区に吾嬬町が含まれている。(最終的に向島区(寺島区)に帰属。)
- 荏原区に馬込町が含まれている。(最終的に大森区に帰属。)
をあげることができる(他にもありそうだが、上図はかなり不確かなので何ともいえないところも多い)。
こうして見ると、直前にもかかわらず異動が多いのに驚かされるが、実際ここで決められたものが現在にも色濃く反映されていることを思えばそれもまた自明となるだろうか。といったところで、今回はここまで。ちょっと書き足りないような気がしないでもないので、次回に続くかも…。
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