今年(2020年)最初の記事が3月というのは、殆ど更新されなくなって久しい当Blogでは驚くべきでも何でもないが、それはともかく最初の記事は、地域歴史に関するものでタイトルからお分かりのとおり、九品仏駅か九品仏前駅か、という議論である。
無論、ここでの九品仏駅は、現在の東急大井町線の駅(自由が丘駅と尾山台駅の間)ではない。自由が丘駅の旧称、開業当初の駅名を指す。
では、なぜ今これを採り上げるに至ったかというと、今年初めに当Twitterを通じて、テレビ東京の「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!」という番組担当の方から、当Blog記事「自由が丘前夜、九品仏駅の痕跡」に掲載の地図(部分)を番組で使いたいという申し出をいただき、当該地図の原本は目黒区立八雲図書館にあると教示させていただいたことがあった。番組は2月7日に放映(関東地方)され、なるほど自由が丘駅の駅名由来について紹介され、内容にもほぼほぼ問題ない(目くじらを立てるような誤りは無い)と思っていたところ、字幕テロップで当初は「九品仏前」駅と紹介されたわけである。しかも、ご案内した地図をわざわざ使って(失笑)。
言うまでもなく、当該地図には「九品佛」と書かれており「前」という表記はない。では、どこから「前」を付加したのか。ここで想像されるのが、誤情報満載のWikipediaからの引用疑惑である。番組スタッフが安易に調べた結果がこの誤りなのだろう。予想どおり、Wikipediaには今日(3月8日)現在、以下のような記載となっていた。
1927年(昭和2年)8月28日に東京横浜電鉄東横線(現:東急東横線)が開通し、九品仏前駅を設置。(自由が丘駅の項)
なお、大井町線の開業前にあたる1927年(昭和2年)8月28日から1929年10月22日までの間は、東横線の現・自由が丘駅が九品仏前駅を名乗っていた。(九品仏駅の項)
とあるように、どちらも「九品仏前」としており、いずれも「宮田道一『東急の駅 今昔・昭和の面影』JTBパブリッシング、2008年9月1日。ISBN 9784533071669」を参考文献としている(Wikipedia項目を書いている人物が同じか)。だが、本書については10年程前に当Blog内でも指摘しているように、東急電鉄OBだからといって、決して歴史・地誌に詳しいわけではなく、多数の錯誤等を指摘した。
- 「東急の駅 今昔・昭和の面影」の東急池上線部分を検証する
- 続「東急の駅 今昔・昭和の面影」の東急池上線部分を検証する
- 「東急の駅 今昔・昭和の面影」の東急大井町線・東急目黒線・東急多摩川線部分を検証する
当時、東横線は興味の対象外であったので、東横線の九品仏(自由が丘)の件は当Blog内ではふれなかったが、鉄道ファンによる歴史の捏造は至る所で拡大再生産(引用誤りの連鎖)されており、本件も同様である。では、正しくは何か。それは同時代史料(資料)を複数照覧し、確認することである。ここでは、東京横浜電鉄(東急の前身会社の一つ。現在の東横線を開業)、官報、そして地元(東京府荏原郡碑衾町)の資料を以下に紹介しよう。
1927年(昭和2年)8月28日に、渋谷〜丸子多摩川間(田園調布〜丸子多摩川は平行線として)が開業し、官報では以下のように掲示されていた(以下、常用漢字等に統一)。
渋谷、並木橋(なみきばし)、代官山(だいかんやま)、中目黒(なかめぐろ)、祐天寺(ゆうてんじ)、碑文谷(ひもんや)、柿ノ木坂(かきのきざか)、九品仏(くほんぶつ)、田園調布、丸子多摩川、とある。常に官報が絶対的に正しいと言うつもりはないが(訂正記事もあがりますし)、本件について訂正記事はあがっていない。そして、東京府荏原郡碑衾町の作成した町制記念(村から町に昇格)地図でも九品仏である。
以前の当Blog記事「自由が丘前夜、九品仏駅の痕跡」に示したものを再掲するが、右下に「九品仏」と見えるが、この地図の白眉はそこではなく、地図上に示された場所は、当初の位置であり、後に詳しくふれる高架化工事以降の駅位置は、その下に白く書かれた部分(現在の自由が丘駅位置)ということである。つまり、自由が丘駅の当初の場所は現在地とも異なるということを示す、貴重な地図なのだ。
続いて、東京横浜電鉄の資料として決定的なものは「昭和三年十二月 九品仏駅改良工事落成記念」の写真である。
これは、自由が丘駅の歴史を語るコーナー等にも掲出される写真であるので、比較的よく知られたものだと思うが、地上を走っていた東京横浜電鉄線を高架化し、その高架下に大井町線を敷設するために行われた工事である。
以上、どれを見ても「九品仏前」となっていない。それでは、なぜ「九品仏前」と錯誤するのか。実は、これも同時代資料に「九品仏前」という名称はある。その資料は目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄共同制作の路線図なのである。この路線図には、開通前の予定として、現在の自由が丘駅〜二子玉川駅間が記載されているが、現 九品仏駅のところに「九品仏前」とあるのが確認できる。
写真がボケボケなのは部分拡大し過ぎなためのご容赦だが、これは現在、東急百貨店渋谷店が閉店記念?ということで、往時の資料を展示している中の一つである沿線案内図(大井町線全通前かつ予定線入り)である。ご覧のとおり、自由が丘駅の所に「九品仏」とあって、その先の「等々力」(写真左上)と「九品仏」の間に「九品仏前」とあるのがボケ気味だが確認できる。つまり、東京横浜電鉄線の方は、まだ「九品仏」であり、開通予定線の方は「九品仏前」ということだ。かなり紛らわしいが、高架工事時には「九品仏」駅は「衾」駅と改称予定であったため、新線開業時には「九品仏前」にすると同時に、乗換駅となる「九品仏」を「衾」とするので問題はないという認識だったと思われる。しかし、地元新興住民は「衾」という新名称に反対し、その結果として「自由ヶ丘」が生まれ、一方の新駅の方は「前」が取れて「九品仏」となったのである。これを時系列に並べると以下のようになる。
「九品仏」から「自由ヶ丘」への改称が、新線開通前に先行して行われたのは、この時点で既に新線の駅名が予定の「九品仏前」から「九品仏」になっていたことは確実だろう。隣駅で紛らわしいため、先行して既存駅を改称したと言えなくもないが、開業10日前であれば、鉄道省の事前監査等も行われているはずであり(報告書は開業直前の日付となるが)、「九品仏前」はあくまで予定駅名に過ぎなかったとなるだろう。
せっかく真っ当な資料を引用したのに、テレビ東京は誤りの拡散の片棒を担いだのは残念だが、たかが「前」が付くか付かないかなど些細な問題ではないかと思うだろう。だが、そうではないのだ。特に固有名詞に至っては、この手の誤りは致命傷であるのは言うまでもない。最後に繰り返すが、自由が丘(自由ヶ丘)駅の最初は、九品仏駅であり、九品仏前駅ではないのである。
2020年3月29日追記
Twitterの方にも掲示したが、自由が丘88周年時に地元で作成されたパネルの写真を挙証資料として、以下に掲示しておく。
こんにちは。ブログを拝見しました。。。すごいですね!!
私も城南在住でいろいろと地元の歴史を調べているのですが、これだけすごいのは図書でもなかなかみつかりません。特に田園都市株式会社の歴史について調べているのですが、よくこれだけ資料を調べられたと感服しております。
田園調布の分譲地で一点解明できない点があるのですが、もしごぞんじであれば教えて頂けないでしょうか。「多摩川台住宅地平面図」の左上の方、現在の多摩川台公園があるところに巨大な4区画が分譲されているのですが、結局これは今公演になっています。平面図を見るとピンク色になっているため「譲渡済」になっていたかとは思うのですが、なぜ今公園として利用できているのか、ご存知ではないでしょうか。これからも解説楽しみにしております。
投稿情報: piyopiyo | 2020/04/18 17:37
コメントありがとうございます。
まず結論ですが、分譲地購入者名簿を見れば一目瞭然です。とはいえ、時期的に当該名簿の閲覧がままならないため(写しを取っておけば良かったですが)、明確にどうとはお答えできません。すいません。
ただし、確認できる限り、という言い方になりますが、この4枚の分譲地は住宅等が建築された様子はありません。また、太平洋戦争末期は一時的に農地(芋畑等)に転用されていたこと。さらにそこから10年を経ずに多摩川台公園が成立(1953年)しているので、もしかしたらですが、風致地区指定にあわせて東京府が住宅地として購入されていたのかもしれません(妄想)。
なお、この4枚の分譲地の北側に宝来山古墳がありますが、約30年程前までここには住宅が建っていました。今は公園地として一体化していますが、分譲地でない民有地でさえ住宅が建っているので、さすがに4枚とも建たないことはないのかな、と。
投稿情報: XWIN II | 2020/04/19 08:09
早速のお返事、ありがとうございます。そうですか。分譲地購入者名簿とういうものがあるのですね。芋畑として利用されていたとは知りませんでした!ご推察の通りのように思えます。また、宝来山古墳に住宅が建っていたとは!!驚きです。宝来山古墳の前方後円墳の円の一部が欠けてその上に住宅が建っているのはすごいと思っていましたが。。。。田園調布の販売が始まってから2023年で100年となるのですが、1000坪ありました渋沢邸は分筆されたのち、数年前までご子息のお宅がありましたが、今は別の方の表札がかかってあります。その斜め向かいの中内さんのお宅(旧森永邸)も、10年程空き地でしたが、今年から建設が始まりました。ちなみに拙宅も古い謄本を確認したところ、旧田園都市株式会社が大正7年に購入した土地で、その後昭和3年に目蒲電鉄に継承され、昭和9年に個人に分譲されています(そのため、XWIN II様が記した田園調布の緑の枠の外にはみ出しています。のちの時代の多摩川台住宅平面図には記載されていますが、最初の頃のものには欄外になっています。)。100年タイムトラベルしてみたいなー、と思っている今日この頃です。
投稿情報: piyopiyo | 2020/04/19 11:28
こんにちは。いろいろと教えていただき、ありがとうございます。
もう1点長年気になった点があり、よろしければ教えて頂けないかと思い投稿させていただいております。目黒線・東横線と環八が交差するところは今は環八側の橋がかかっていますが、昔(東京オリンピックの前)は踏切だったと聞きます。今見ると線路はかなり深い位置にあるのですが、昔は線路はもっと高い位置にあり、それを掘り下げたということになるのでしょうか。それとも環八側を盛り上げたということになるのでしょうか。もし線路がもっと高い位置にあったとすれば、奥沢から相当な急こう配を登ってきていたことになりますでしょうか。よろしければ教えて頂けると長年の心のつかえがとれます。どうぞよろしくお願いします。
投稿情報: piyopiyo | 2020/04/20 15:24
毎度どうも。
さて、例の東急目黒・東横線と環八通りの交叉部分ですが、お見込みのとおり「昔は線路はもっと高い位置にあり、それを掘り下げたということ」です。目黒線については、奥沢駅側から二つ目の奥沢2号踏切から地盤の切り下げ(掘り下げ)が行われており、徐々に地盤面から低い位置に移行し始めます。一方、東横線も自由が丘駅側から二つ目の踏切(八幡小学校北東側)から同じく切り下げが行われています。
現地の地形から確認できるとおり、交叉部分はこの路線の前後から見ると頂点にあたり、どちらの路線もこの交叉点に向かって登っていき、そして降っていくというわけです。地盤の切り下げが行われていない当時であっても標高差は10メートルほどあるので、急勾配であったのは確かでしょう。
投稿情報: XWIN II | 2020/04/21 07:02
早速のご回答ありがとうございます。なるほど。相当な掘り下げを行ったということですね。電車を動かしながらの工事だったでしょうから、相当な難工事だったかと想像します。線路だけ足場のようなもので支えながら下を掘っていったということでしょうか。田園調布駅の南側も踏切があって、そこをトンネル化したと聞きました。それらによって田園調布の東西は踏切なしでつながりましたが、昔の東西の分断は目黒・東横2線が走っているので、相当なものであったと想像します。現在は奥沢駅の工事が行われていますが、ここは地下化や高架化はしないようです。荏原電気鉄道(大井線)や東横電鉄が当初想定していた奥沢経由を見送ったことに始まり、奥沢にはそれほどの投資が行われていないような気がします(玉川村は他地域に比べて見捨てられた?)。
投稿情報: piyopiyo | 2020/04/21 13:11
こんにちは。シリーズ「池上電鉄奥沢線(新奥沢線)の歴史を探る」を楽しく拝見いたしました。ふと思ったのですが、現在東急が進めようとしている蒲蒲線、なかなかすすまないのは、京急側が密かに反対しているからと邪推していしているのですが、まるで新奥沢線が目蒲線に接続できなかったことのしっぺがえしのように思えてきました。もしよろしければ、XWIN II様のご意見をお伺いできれば幸いです。蒲蒲線ができれば多摩川線の復興はもとより東急沿線住民の利便性の向上は明確なのですが。当面は2022年の新横浜への直通を楽しみにしております。
投稿情報: piyopiyo | 2020/04/23 11:38
おはようございます。
実を言いますと、本コメントを頂戴して以降、蒲蒲線についてのBlog記事を書いているのですが、例の如く長くなってきてしまい収拾が付かなくなりつつあるので、近いうちに何回かに分割して掲載しようと思っています(苦笑)。
ご存じの通り、蒲蒲線(今は新空港線)は、本当はローカルレベルの話(蒲田と京急蒲田をつなぐだけ)であるものが、グローバルレベルにまで話が大きくなってしまったため(東京西北部から羽田空港へという展開)、計画の大義名分は得られたものの、実現へのハードルは大きく引き上げられてしまった現状があります。
そこで地元大田区では、独自に第1期計画として矢口渡〜京急蒲田間を狭軌で建設(つまりただの蒲蒲線)を打ち出しましたが、これでは新空港線としての大義名分が失われ、以前の計画つまり進捗しない計画に逆戻りで、実現可能性は極めて薄いと言わざるを得ません。
蒲蒲線ができない理由はただ一つ。鉄道事業者である京急電鉄にメリットどころかデメリットしかないことがすべてです。まさにお見込みの通りですね。
投稿情報: XWIN II | 2020/04/29 07:15
田園調布関連ですが、昭和43年8月に発行された「町内地図出版社」という地元の商店街の宣伝地図を所持しています。
それを見ると、多摩川台公園は道路を挟んでお向かいは名無しの更地。南側はポーランド大使館となり、多摩川台公園地内と見受けられるところに7軒ぐらいの民家があります。また、宝来公園の中に「小林」という民家がポツンとあるのが不思議な感じです。
渋沢邸は1000坪もあったのですか!駅の近くですね。その斜め向かいの森永さんのおうちは「洗心寮・森永寮」と記されています。
私自身は「洗足田園調布(現洗足駅周辺)」の分譲地購入者名簿は持っています。必ず名簿は存在します。コロナ禍がおさまったら、図書館へGO!ですね。
投稿情報: りっこ | 2020/04/30 16:34
ありがとうございます!!!連載、とても楽しみにしています!
新空港線という大風呂敷を広げないでいいので、東急と大田区だけのローカル線として蒲蒲線を実現してもらいと願っています。京急も協力しなくていいので、邪魔だけはしないで京急蒲田駅の地下だけ使わせてくれればいいのにと思っています。ローカル線だとそこまでコストはかからないでしょうし(リニア新幹線用に東京の地下を掘り進めていることを考えると屁のようなものに思えます。)、多摩川線沿線も活気づいてきて東急も十分もとをとれるのでは。五島氏の大東急時代に進めておいてくれれば、東急沿線住民も羽田アクセスで苦労しなかったのですが、そこまで手が回らなかったのでしょう。国の審議会に任せると優先順位が低くなりそうなので、独自でどんどんすすめてもらいたいですね!
投稿情報: piyopiyo | 2020/05/01 10:41
りっこさま
コメントありがとうございます。多摩川台公園、宝来公園とも今の時期は歩いていてとても気持ちいいですね。多摩川台公園の目の前の道もゆったりとした敷地で植栽もきれいで同じく公園内を歩いている気分になれます。宝来公園の中に個人宅があったとは。。。分譲地購入者名簿、コロナが収まったら探してみますね!ありがとうございます。
投稿情報: piyopiyo | 2020/05/02 17:43
>1927年8月28日に東京横浜電鉄東横線(現:東急東横線)が開通
今さらながらなんですが、「東横線開業90周年記念出版」
東急前線 古地図さんぽ 読了しました。
で、思いました。
何でこんなに校正が雑なの??
記事の内容以前の問題が多数ある本です。
例えば42ページ 「国土交通症」 笑ってしまいました。もちろん国土交通省です。
そして旗の台
×「旗が丘駅」 → ○「旗ヶ岡駅」
×「旗ノ台駅」
なんかもう、脱力してしまいました。特に目新しい記事もありませんでした。
(間違い探し本にすると、暇つぶしにはいいかもしれません・笑)
投稿情報: りっこ | 2020/05/31 13:40
昨今、編集が酷い物が多いですが、予算削減でそもそも要員が足りていないというのが大きいですね。そもそも数でないし、加えて売れないので。一方でベストセラーは一部に残る物の、根腐れ状態なのが出版業界なのかな、と。
投稿情報: XWIN II | 2020/06/02 06:55
コロナ休業が終了したので、早速「多摩川台地区契約者名簿」を見ました!多摩川台公園に隣接している大きめな土地4区画とも、購入者がいました(2名が2区画ずつ購入していました。)。ただ、現住所もそのまま記載されているので、建設することなく戦後東京都に売却したのではないかと想像しています。
蒲蒲線、楽しみにしております!
投稿情報: piyopiyo | 2020/06/07 09:51