いよいよ本日(16日)、東急東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転がスタートした。単に相直運転であれば「ふ~ん、それで?」レベルなのだが、今回は東横線の渋谷駅が移転したという事実が大きい。東横線の渋谷駅開業は昭和2年(1927年)なので、かれこれ86年間、存在していたものがなくなるという大きな変化なのである。もちろん、すぐさま駅施設がなくなるわけではないので、構造物としてはしばらくの間は存在し続ける。とはいえ、駅の利用客はなくなり電車も頻繁に発着しなくなるので、大きな変化であるのは確かだろう。
さて、そんな大きな変化となった東急東横線と東京メトロ副都心線相直運転開始を勝手に記念して、私的な東横線の歴史をあれこれ語っていきたい。無論、私は古老というレベルには遙かに遠く、東横線を利用している期間もおおよそ30年程度でしかないので、86年に及ぶ東横線の歴史から見れば大したことは書けない。だが、書こうと思うことは容易くても書くことまでは難しいという行動学の理念から、まずは書いてみようということである。
東横線の歴史は、どこまで遡ることができるだろうか。私が思うに、それは1908年(明治41年)5月8日の武蔵電気鉄道株式会社に対する私設鉄道株式会社仮免許状交付がスタートと考える。
明治41年5月11日付け官報を見れば、
- 東京府豊多摩郡渋谷村 ~ 平沼停車場
- 東京府荏原郡調布村 ~ 蒲田停車場
の2路線の免許が借り交付されたことがわかる。このうち一番目の「東京府豊多摩郡渋谷村 ~ 平沼停車場」が現在の東急東横線の原型と言える路線となる(ちなみに二番目のものは東急多摩川線の原型)。無論、現在とは経由地などが大きく異なる点も少なくないが、原型であることに疑いはない。そして、本免許は、
明治44年(1911年)1月17日付け官報に見えるように、仮免許時とは若干路線が異なっている。
- 東京府豊多摩郡渋谷町字広尾町天現寺橋 ~ 神奈川県横浜市平沼町
- 同府荏原郡調布村字下沼部 ~ 蒲田停車場
東横線の原型である一番目は、仮免許時よりも起点・終点がより正確に書かれたというのみならず、位置も若干変更となった。当時、まだ平沼駅(停車場)はあったが駅の設置場所が今一つであり、1915年(大正4年)に廃止となる流れの中にあったので、平沼停車場から平沼町と表現が変わっている。なお、ここにいう「字」(あざ)とは大字を指す。
こうして本免許を得た武蔵電気鉄道だが、なかなか思ったようには事業は進捗しない。
1917年(大正6年)5月14日付け官報で確認できるように、武蔵電気鉄道は指定工事期限内に工事竣工がならず、なんと5月10日に私設鉄道免許を失効してしまう。だが、条件の緩い軽便鉄道法に基づく申請を即日行い、1917年(大正6年)10月30日になって再び、形の上で免許を事実上再取得するに至るのである。
大正6年11月2日付け官報の記事を掲載したが、ここに見えるように10月(去月)30日に武蔵電気鉄道に対し、3路線(幹線、第一支線、第二支線)の免許が交付された。いずれも私設鉄道法による免許失効したものの再取得となるが、武蔵電気鉄道にとっては事業の本体といえる鉄道免許を失効したままでは事業の基盤そのものを失ったも同然であり、格の落ちる軽便鉄道法の免許(特許)を取得しなければ存在意義を問われかねない。だが、何とか免許を再取得したことで、武蔵電気鉄道は大きな賭に出る。何と、軽便鉄道敷設から広軌鉄道敷設へと社の定款を変更したのであった。
しかし、武蔵電気鉄道の業績…いや資本力は増強されるどころか却って弱くなる一方であり、さらに第一次世界大戦後の不景気によって、ますます鉄道敷設どころではなくなってくる。そして、ついに大正8年(1919年)12月21日には定款変更し、経営陣を一新。郷誠之助男爵をはじめとするメンバーに交代した。さらにその翌年、大正9年(1920年)5月26日に鉄道院を退職して、かの五島慶太が常務取締役として就任する。これだけ見れば、いよいよ武蔵電気鉄道も上り調子になってきたかといえば、さにあらず。経済不況はますます厳しくなり、鉄道工事を始めることすらできずに会社そのものの命運が尽きようとしていたのであった。
ここで助け船が出されることになる。それは田園都市株式会社であった。当blogでも田園都市株式会社のことは地域歴史研究でそれなりに書いているので、Google検索等(例えば「田園都市株式会社 XWIN」とか)で探していただきたいが、田園都市株式会社の分譲地を通る鉄道計画を推進させるために非常勤取締役として籍を置いていた小林一三の推挙によって、武蔵電気鉄道常務取締役 五島慶太の引き抜きが画策されたのである。無論、傾いている会社よりも資本のしっかりしている会社の方が事業を進めやすいのは当然で、五島慶太はその申し出を受けることになる。ただし、それには条件があり、武蔵電気鉄道が免許を持つ「第一支線」こと「蒲田支線」(調布村~蒲田停車場)を田園都市株式会社に譲渡することが求められた。田園都市株式会社の分譲地は調布村付近に大きく確保されていたため、蒲田停車場までの鉄道は欠くことのできないものだからである。五島慶太は、このスカウトしてもらう条件を呑み、その真意を武蔵電気鉄道には伏せ、別の理由で蒲田支線の譲渡を決定する。時は、大正11年(1922年)7月10日。目黒蒲田電鉄設立、つまり五島慶太が目黒蒲田電鉄の常務取締役に就任する2か月ほど前のことであった。
大正11年(1922年)9月20日付け官報には、この権利譲渡が9月(本月)19日に許可されたことが確認でき、創立されたばかりの目黒蒲田電鉄に対して、田園都市株式会社の2線(大井町停車場 ~ 調布村間、目黒停車場 ~ 碑衾村間)と武蔵電気鉄道の蒲田支線(調布村 ~ 蒲田停車場間)の免許が異動したのである。そして目黒蒲田電鉄は、この3線を部分結合して目黒停車場 ~ 洗足分譲地 ~ 多摩川台分譲地 ~ 蒲田停車場という、かつての目蒲線(現在の東急目黒線の一部と東急多摩川線の全部)として、わずか2年程度で全通させてしまうのであった。
こうして資本力のある田園都市株式会社と、武蔵電気鉄道を裏切った五島慶太が推進する目黒蒲田電鉄の2社が分譲地からの多額の利益を生み出すようになるが、それにはもう一つきっかけが必要だった。それは関東大震災である。
関東大震災によって東京市中は壊滅的な打撃を受け、住居の郊外移転が進む端緒となる。これにより、開業間もない目黒蒲田電鉄の運輸や田園都市株式会社の分譲地は多額の利益を生み出すようになり、さらに大きなものとして東京蔵前の罹災した東京高等工業学校の敷地と大岡山分譲地の等価交換によって、莫大な利益を手にした。これによって、目黒蒲田電鉄の資本金を事実上の親会社である田園都市株式会社の資本金と同じ500万円に増資し、さらに低迷していた武蔵電気鉄道の株式を買収して経営権を握り、五島慶太にとって恩人というべき郷誠之助男爵以下経営陣を追放。そして、大正13年(1924年)10月25日、臨時株主総会において社名を武蔵電気鉄道から東京横浜電鉄へと改称したのである。ここに強力な資本力と次々と利益を生み出す分譲地を背景に、武蔵電気鉄道の幹線だった「渋谷町 ~ 横浜市」間の鉄道建設がついに現実味を帯びてくるのであった。
といったところで、今回はここまで。続きはまた暫くしてからの予定。
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