東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第19回目、そして最終回である(第18回目はこちら)。荏原郡19村の最後となる今回は、荏原郡玉川村をとりあげる。では、いつもどおり第一次案から見ていこう。
等々力村 = 等々力村 + 尾山村 + 奥澤村 + 下野毛村(飛地字深澤原1737~1740番地を除く)+ 衾村飛地字谷鷺草 + 下沼部村飛地字沖ノ谷・字鷺ノ谷 + 深澤村入会地字熊野谷
瀬田村 = 瀬田村(飛地字横根台を除く)+ 用賀村 + 野良田村 + 上野毛村
第一次案では、玉川村となるエリアは2つの村が起立する予定だった。等々力村と瀬田村である。どちらも有力な村であり、大正期の玉川全円耕地整理組合においても等々力出身の豊田村長と瀬田の地主との間で先鋭的対立が起こったが、その30年ほど前の玉川村成立時からその兆候は表われていた。しかし、この両村では人口規模が小さいということで、両村は第二次案では合併させられる。
玉川村 =等々力村 + 尾山村 + 奥澤村 + 下野毛村(飛地字深澤原1737~1740番地を除く)+ 瀬田村 + 用賀村 + 野良田村 + 上野毛村 + 衾村飛地字谷鷺草 + 下沼部村飛地字沖ノ谷・字鷺ノ谷 + 深澤村入会地字熊野谷
合併後の村名も等々力でも瀬田でもなく、そのどちらでもない玉川が採用された。玉川とは、もちろん多摩川に由来するが、このあたりでは美称として玉川と字をあてており、これを村名としたのであった。このまま最終案でも、
玉川村 =等々力村 + 尾山村 + 奥澤村 + 下野毛村(飛地字深澤原1737~1740番地を除く)+ 瀬田村 + 用賀村 + 野良田村 + 上野毛村 + 衾村飛地字谷鷺草 + 下沼部村飛地字沖ノ谷・字鷺ノ谷 + 深澤村入会地字熊野谷
第二次案から異動はなく、施行も
玉川村 =等々力村 + 尾山村 + 奥澤村 + 下野毛村(飛地字深澤原1737~1740番地を除く)+ 瀬田村 + 用賀村 + 野良田村 + 上野毛村 + 衾村飛地字谷鷺草 + 下沼部村飛地字沖ノ谷・字鷺ノ谷 + 深澤村入会地字熊野谷
上記のようにまったく変わることなく行われた。このように第二次案から大きな異動が全くなかったのは、玉川村としての一体感というよりも、他に合併相手がなかったからという方が適切だろう。北西部分が神奈川県で、隣接するのは世田ヶ谷村、駒澤村、碑衾村、そして調布村だが、それぞれほとんど玉川村と接するところでの異動はなく、そこに落ち着くほかないといった印象である。
さて、玉川村を構成する村々は、すべて玉川村の大字名として継承されるが、東京市編入時に野良田は玉川中町となって消滅した。玉川村の中心的な位置づけにならんとする地域に「野良田」というのは田舎くさいと敬遠されたのである。ほか、下野毛が単に野毛となったほかはそのまま継承され、それは住居表示後も同様である。以前にもふれたように、世田谷区は比較的地名を残しているといえるだろう。
以上、途中中断もあったが全19回としておおくりした「東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程」シリーズは今回でおしまい。ここまで細かい話は難しいが、いずれは豊多摩郡であるとか、東京の他の地域もふれていきたいと考えている。といったところで、今回はここまで。
ありがとうございました。このシリーズ、大変お勉強にもなり、興味深く拝読させていただきました。
無知なので、お聞きしたいと思いますが「美称」って、どういう意味なのでしょうか?
そのまま、「うるわしい呼び名」というふうに受け取ってよろしいのでしょうか?
多摩川と玉川
実はちょっと不思議だなと思っていたのです。なぜ多摩川と玉川があるのだろうと。時に間際らしくなるので。
これが略称とか俗称というのではなくて、美称なのですね?
投稿情報: りっこ | 2013/02/22 07:33
野良田
中学時代のクラスメートが住んでいたので思い出しました。地元の方ですので古い地名を出したのだと思いますが変わった地名ですので記憶に残っております。たしかまわりには空き地が多かった尾山台駅を降りて目黒通りに向けて砂利道を北に登った辺りだったと記憶しております。急激に宅地化したのは戦後だったと思いますが、最近用があって付近に行きましたが全く様相が変わっていて驚きました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/22 11:28
美称について。
「南」という名を「美奈見」とするようなものです。ここでは「多摩(または多磨)」を「玉」とした意で用いています。
投稿情報: XWIN II | 2013/02/24 08:28
美称についての補足?
多摩でも美術大学がありますので、芸術には縁があるようですね(笑い)
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/24 11:15