東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズは、全19回で最終回を迎えたつもりでいたが、ざっと振り返ってみてまったく図がないのはやっぱりわかりにくいのではないかと考え、今回はそのフォロゥとして簡単な図を作成してみた。各村々の境界線を描ければなおよいのはわかっているが、そこは時間との兼ね合いなので概ねの位置関係を把握できる程度にとどめている。無論、大村と小村を同一サイズの楕円に囲んだ名称で並べるのはナンセンスであり、特に現在の蒲田駅西口方面の小村林立地帯では、狙った場所に村名を置くことができなかったところもある。よって、あくまでどのあたりにあったのだという程度でご覧いただければ寛仁である。
まず、最初にご覧いただくのは、明治22年(1889年)、町村制施行後に東京府荏原郡を構成する町村の合併前の村々を示した図である。市制町村制の前は大区小区制があり、各村々はそれぞれ大区・小区に所属していたが、それをも考慮に入れず、単に位置関係だけを示した。これは先入観を抜きに、位置関係からどの組み合わせが適切かを確認するためである。では、これを踏まえて第一次案の組み合わせではどうだったのかを見ていこう。
これまで19回にわたって個別に見てきたが、ここでは全体を俯瞰してみる。細かい飛地や部分などを除き、組み合わせを以下に示すと、
- 南品川町 = 北品川宿 + 南品川宿 + 二日五日市村
- 大井村 = 大井村
- 大崎村 = 下大崎村 + 上大崎村 + 居木橋村 + 谷山村 + 桐ヶ谷村
- 戸越村 = 戸越村 + 下蛇窪村 + 上蛇窪村 + 中延村 + 小山村
- 目黒村 = 下目黒村 + 中目黒村 + 上目黒村 + 三田村
- 衾碑文谷村 = 碑文谷村 + 衾村
- 新井宿村 = 新井宿村 + 不入斗村
- 大森村 = 大森村
- 馬込村 = 馬込村 + 池上村 + 石川村 + 雪ヶ谷村 + 道々橋村
- 池上村 = 下池上村 + 堤方村 + 市野倉村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村
- 沼部村 = 下沼部村 + 上沼部村 + 嶺村 + 鵜ノ木村
- 蒲田村 = 北蒲田村 + 蒲田新宿村 + 女塚村 + 御園村 + 麹谷村
- 羽田村 = 羽田村 + 羽田猟師町 + 鈴木新田 + 萩中村
- 八幡塚村 = 八幡塚村 + 雑色村 + 町屋村 + 高畑村 + 古川村
- 矢口村 = 矢口村 + 下丸子村 + 今泉村 + 古市場村 + 安方村 + 小林村 + 道塚村 + 原村 + 蓮沼村
- 等々力村 = 等々力村 + 奥澤村 + 尾山村 + 下野毛村
- 瀬田村 = 瀬田村 + 野良田村 + 上野毛村 + 用賀村
- 代田村 = 代田村 + 三宿村 + 池尻村 + 太子堂村 + 若林村 + 下北澤村
- 世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村 + 経堂在家村 + 弦巻村
- 馬引澤村 = 下馬引澤村 + 上馬引澤村 + 野澤村 + 深澤村 + 世田ヶ谷新町
- 北澤村 = 上北澤村 + 赤堤村 + 松原村
となる。これが第二次案では、
このようになり、組み合わせが大きく変更になったところのみ列挙すると、
- 大森村 = 大森村 + 不入斗村
- 池上村 = 下池上村 + 堤方村 + 市野倉村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村 + 新井宿村
- 蒲田村 = 北蒲田村 + 蒲田新宿村 + 女塚村 + 御園村 + 麹谷村 + 萩中村
- 羽田村 = 羽田村 + 羽田猟師町 + 鈴木新田
- 玉川村 = 等々力村 + 奥澤村 + 尾山村 + 下野毛村 + 瀬田村 + 野良田村 + 上野毛村 + 用賀村
- 世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村 + 経堂在家村 + 三宿村 + 池尻村 + 太子堂村 + 若林村
- 駒澤村 = 下馬引澤村 + 上馬引澤村 + 野澤村 + 深澤村 + 世田ヶ谷新町 + 弦巻村
- 北澤村 = 上北澤村 + 赤堤村 + 松原村 + 代田村 + 下北澤村
以上8村におよび、組み合わせは変わらないが合併後名称を変更したのは、平塚村(第一次案では戸越村)、六郷村(第一次案では八幡塚村)、調布村(第一次案では沼部村)の3村を数える。そして最終案では、
このようになり、同じく組み合わせが大きく変更になったところのみ列挙すると、
- 入新井村 = 新井宿村 + 不入斗村
- 大森村 = 大森村
- 馬込村 = 馬込村
- 池上村 = 下池上村 + 堤方村 + 市野倉村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村 + 池上村 + 石川村 + 雪ヶ谷村 + 道々橋村
- 蒲田村 = 北蒲田村 + 蒲田新宿村 + 女塚村 + 御園村
- 羽田村 = 羽田村 + 羽田猟師町 + 鈴木新田 + 麹谷村 + 萩中村
- 世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村 + 経堂在家村 + 三宿村 + 池尻村 + 太子堂村 + 若林村 + 代田村 + 下北澤村 + 上北澤村 + 赤堤村 + 松原村
以上7村におよび、組み合わせは変わらないが合併後名称を変更したのは、碑衾村(第二次案までは衾碑文谷村)がある。そして実際の施行においては、
このようになり、同じく組み合わせが大きく変更になったところのみ列挙すると、
- 品川町 = 北品川宿 + 南品川宿 + 二日五日市村 + 品川歩行新宿 + 南品川猟師町 + 南品川利田新地
- 世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村 + 経堂在家村 + 三宿村 + 池尻村 + 太子堂村 + 若林村 + 代田村 + 下北澤村
- 松澤村 = 上北澤村 + 赤堤村 + 松原村
以上、3町村に異動があった。
というわけで、これを含めて東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズは20回で簡潔もとい、完結。といったところで、今回はここまで。
XWIN II 様
パノラミックに変遷を見ることができる便利な地図を有り難う御座います。保存しましたが著作権は尊重しますのでご安心下さい、
沢とか谷の地名ですが川と関連させるとより解り易くなると思います。例えば奥沢なら九品仏川、雪谷なら呑川、渋谷なら渋谷川を中心とするとその領域が把握し易くなるような気がしますが、例えば雪谷のように駅名により軸足がずれてくるので注意が必要かと思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/25 10:40
小学校の名前に旧村名が残っている場合が多いです。
投稿情報: 眞形敦雄 | 2021/09/10 14:33