東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第12回目となる今回は、荏原郡蒲田村をとりあげる。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。
蒲田村 = 蒲田新宿村 + 北蒲田村 + 女塚村 + 御園村 + 麹谷村 + 鵜ノ木村飛地字沖島797~1040番地
意外に思われるかも知れないが、この頃に蒲田村はなく、北蒲田村と蒲田新宿村があった。往古はもちろん、蒲田村であっただろうが、分村によって2村にわかれていたものの、どちらも東海道に面しているため、女塚や御園、麹谷(糀谷)よりも有力な村であり、第一次案としては妥当な命名といえる。なお、麹谷(糀谷)村は、明治12年(1879年)に隣接する下袋村(概ね現在の大田区北糀谷に相当)と浜竹村(概ね現在の大田区西糀谷三丁目の浜竹図書館周辺)を合併しており、江戸期からしてみれば7村合併ともいえる。なお、鵜ノ木村飛地字沖島については、前回記事を参照いただきたい。
続いて、第二次案。
蒲田村 = 蒲田新宿村 + 北蒲田村 + 女塚村 + 御園村 + 麹谷村 + 萩中村 + 鵜ノ木村飛地字沖島797~1040番地
新たに加わったのは、萩中村。大雑把だが、現在の大田区萩中に相当するところであり、多くを蒲田新宿村と麹谷村と境界を接していたので、悪い選択肢とはいえない。ただし、萩中村視点で見ると、第一次案では羽田村に属していたため、どちらについても三番手以降に変わりはなく、人的・物質的にどちらと合併した方がいいかはケースバイケースだったろう(萩中村の西側なら蒲田村だろうし、東側なら羽田村の方だろう)。要するに、どっちつかずと端から見えたのかはわからないが、最終案ではこのようになった。
蒲田村 = 蒲田新宿村 + 北蒲田村 + 女塚村 + 御園村 + 鵜ノ木村飛地字沖島797~1040番地
萩中村は再び蒲田村を離れ、羽田村へと異動した。と、それだけではない。第一次案、第二次案ではあったはずの麹谷(糀谷)村がなくなってしまっている。いったい、どこへ行ってしまったのか。こたえは、萩中村共々、羽田村へと異動したのだった。麹谷(糀谷)村が蒲田村から離れ、羽田村との合併を選択したのは、江戸期からの羽田村との入会地が多いことに加え、明治以降になって海苔の養殖が羽田地域でも認められることとなり、このために蒲田村との合併よりも羽田村との合併を選んだのだった。こうして、蒲田村は4村合併となり、施行時においても、
蒲田村 = 蒲田新宿村 + 北蒲田村 + 女塚村 + 御園村 + 鵜ノ木村飛地字沖島797~1040番地
このように4村合併で起立したのだった。
蒲田村は、その後に蒲田駅の開設、東京市成立時には蒲田区となるなど、今日では有力な地名となってはいるが、蒲田村成立時にはそこまで有力なものではなかった。近隣の大森、羽田、池上に比べればその知名度は劣っていたのである。しかし、鉄道駅の開業は大きかった。明治22年(1889年)当時でいえば、女塚村と御園村の境界付近に設置されることになる蒲田駅は、周辺に村落がなかったこともあって、池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄が乗り入れるようになりターミナル駅となった。東口側の広大なエリアには松竹撮影所が進出し、一時期ではあるが「流行は蒲田から」などと言われもした。日中戦争後は、軍需関連工場が次々と沿線に進出するようになり、最終的には灰燼に帰してしまうが、東京城南地区随一のエリアとなった。
戦後、紆余曲折を経て、今では東京都大田区の中心と言っていい蒲田。その発展は蒲田駅にあったと考えつつ、今回はここまで。
蒲田区の御薗町は西口の商店街として御薗銀座と呼ばれていたような気がします、東口は羽田地区の工業地帯の業績不振で、京浜蒲田付近は昔と比較して衰退している様に見えます。バブルの産物とは言え、大田区役所がさまざまな論議を呼び乍らも新井宿から蒲田に移転したことは、駅の力の強さを表していますね。今後の課題は蒲田駅と羽田国際空港との間の交通手段次第で東口もまた変化するかも知れませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/15 07:53