東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第11回目となる今回は、荏原郡調布村をとりあげる。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。
沼部村 = 上沼部村 + 下沼部村(飛地字沖ノ谷及び字鷺谷を除く)+ 嶺村 + 鵜ノ木村(飛地字沖島を除く)
最初に飛地についてふれておこう。下沼部村の飛地字沖ノ谷とは、現在の世田谷区奥沢二丁目及び三丁目の目黒区との境、九品仏川岸部分で、大正期に始まる玉川全円耕地整理組合とは歩調を合わせず、独自に区画整理を行うようなところだった。その名残は、九品仏川(緑道)が曲がりくねったまま残されていることからもわかる(自由が丘駅あたりできれいな直曲線を描く手前あたりまで。当該部分の目黒区側にあたる衾東部耕地整理組合は、奥沢側と調整できなかったことを東京府に報告している)。続く、飛地字鷺谷も沖ノ谷から続く部分で衾村飛地鷺草とも隣接していた。このあたりの飛地は一括して玉川村に合併されるが、歴史的出自の異なる地主だったことから、なかなか話をとりまとめていくことは難しかったと思われる。
そして鵜ノ木村の飛地字沖島(沖ノ島とも書き、おきのしまと読む)は、数多くある鵜ノ木村の飛地のうち、現在の大田区西蒲田二丁目あたり(大森高校や蓮沼中学校あたり)のことで、4村合併によって飛地を解消できなかったところにあたる。
さて、第一次案では、調布村ではなく沼部村だった。組み合わせ4村をご覧いただければ確認できるように、上・下沼部村があり、しかもこの両村で全体の半分以上の面積を占めていたので、当然、沼部村とするのが妥当と当局が判断するのも無理はない。だが、4村のうち、かつての栄光は鵜ノ木村にあり、そして有力者の多くは嶺村にあった。このため、沼部村という名称は否定される。第二次案では、このようになった。
調布村 = 上沼部村 + 下沼部村(飛地字沖ノ谷及び字鷺谷を除く)+ 嶺村 + 鵜ノ木村(飛地字沖島を除く)
調布村、である。調布といえば、今では真しやかに「租庸調の調で、布を献じた。あるいはその生産地だったから」などと地名の由来を語っているが、明治22年(1889年)頃に新たに命名された意義を考えれば不適切と見る。というのも、江戸期以前しばらくの間、調布などという村名はもちろん、地域名としても存在せず、あの時代だからこそ付けられたネーミングとした方がよい。同時期に、現在の調布市のルーツである調布町もこの時、新たに命名されており、他地域でも類例は多い。要は流行名だったというわけである。ちなみに、東京府内に合併後に同じ町名・村名が複数とならないような配慮は当然成されていたが、現在の調布市にあたる調布町は神奈川県に属しており、明治26年(1893年)に東京府に移管された。さらに、現在の青梅市にあたる調布村も同年に東京府下に入り、ここで東京府内に調布と名の付く町村は3つを数えたのである。このような経緯から、荏原郡調布村が町制施行する際には、接頭語として「東」を付し、東調布町としたわけである。
では、最終案を見てみよう。
調布村 = 上沼部村 + 下沼部村(飛地字沖ノ谷及び字鷺谷を除く)+ 嶺村 + 鵜ノ木村(飛地字沖島を除く)
組み合わせも合併後の村名も変わらない。ということは施行時も予想どおり、
調布村 = 上沼部村 + 下沼部村(飛地字沖ノ谷及び字鷺谷を除く)+ 嶺村 + 鵜ノ木村(飛地字沖島を除く)
となった。こうして結果だけを眺めれば、4村合併は変わらずに合併後の名称だけが当時の流行であった「調布」を村名としたことがわかる。そして、この調布という名は、田園都市株式会社の田園都市分譲とその子会社であった目黒蒲田電鉄による調布駅の開業によって、「田園調布」という駅名、地域名、町名を誕生させることとなり、4村合併の沼部や嶺、鵜ノ木(鵜の木)などよりもはるかにメジャーとなった。
このように、地名というものはその由来・語源などよりも、命名される理由というものがその時代、時期によって定められるものであり、いかに地名由来至上主義的なものだけでは無価値であるかに気付かされる。特に、「調布」という名の歴史を見ていけば、よりそれははっきりとわかることだろう。こんなところで、今回はここまで。
XWIN II様
お説のとおり、鵜の木と言う地名は武蔵国分寺の瓦にも寄進者として記されているので、奈良時代から有力な地名だったのかもしれませんが、渋沢氏が主導した田園都市構想が調布の地名を高め、上流の調布市とは別の特別のイメージを作り出したことも事実ですね。現在でも、大田区役所の行政区画の一つとして調布地区があります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/14 09:52