東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第10回目となる今回は、馬込村をとりあげる。このシリーズもようやく折り返し点を過ぎて、前後半に分ければ後半に突入。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。
馬込村 = 馬込村 + 池上村 + 雪ヶ谷村 + 道々橋村 + 石川村
前回の池上村でふれたように、第一次案では馬込村を構成するのは5村あった。だが、池上村以下4村は、下池上村を中心とする池上村に最終案で移行することとなった。結果がわかってしまっているので、第二次案と最終案をあっさり流す。
馬込村 = 馬込村 + 池上村 + 雪ヶ谷村 + 道々橋村 + 石川村
これが第二次案。第一次案と変わりはない。しかし最終案で、
馬込村 = 馬込村
と、4村が池上村に合併することとなったので、馬込村は他に構成する村を失い、単独で村を構成することとなった。では、本当にあっさりだが、施行時の馬込村を見てみよう。
馬込村 = 馬込村 + 池上村字平塚の一部(池上裏道以東)
正確に言えば、馬込村は完全に単独で成立したわけではなく、馬込本村と千束が飛地を成していたため、前回ふれたようにこの飛地状態を解消するため、旧池上村(合併後成立した池上村ではない)の字平塚の一部(1~7、13~25、30番地。この部分が池上裏道以東を指す)を馬込村に移管し、代わりに千束池(洗足池)のすべてを池上村の所管とした。(参考記事:「昭和初期まで、地元にとっては洗足池でなく千束池だった」)
この結果、距離にしてわずか50メートル程度の接続であるが、馬込本村と千束は飛地関係でなくなったのである。第二次案までの池上村以下4村を馬込村としていれば、このような分断が起こることはなかったのだが、前回の池上村の回で説明したように池上村への4村異動があったため、このような所管交換が行われた。ここでの単独村形成が、昭和7年(1932年)の東京市合併の際、馬込村(町)がどこと合併して区を構成するかという問題の起因だといえるが、明治22年(1889年)当時、当然誰もそんなことは考えていなかった。
といったところで、今回はここまで。
現在は池上裏道と洗足坂上で中原街道から分岐して尾根を東に走る大井街道の南側に挟まれた三角地帯が北馬込となっています。飛び地のルーツは旗本の知行地にも関連が在り、各地に境界の問題を起こしています。本件の場合は環七と言う環状道路で分断されていますが、歩行者の横断が危険ですので行政区画もこれに従うのが当然の結論でしょう。同様に中原街道の北側の池上洗足町の一部も北千束になっていますね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/13 14:10
池上洗足町
東京紅探偵団の下山事件を歩くの地図を見ると下山邸は洗足池駅から長原よりの淡谷のり子の家の近所ですが、私の記憶では荏原地所が開発した住宅地であった様に思いますが、オーナーは元池上電鉄の役員でしたので千束ではなくネームバリューのある洗足としたのではないかと推測しています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/25 16:06