以前、「池上電気鉄道、開業前の年表作成の試みに関する一考」という記事を作成したが、今回はその続きで開業後から1927年(昭和2年)までを対象とする。以前と同様に、「東京急行電鉄50年史」(以下、東急50年史)と戦前に刊行された「東京横浜電鉄沿革史」(以下、東横沿革史)の2図書の巻末の年表から列挙したものから示そう。
この約5年間には、池上電気鉄道によって本格的な電鉄会社となっていく、いわゆる産みの苦しみを味わうような雌伏の期間といえるものだが、東横沿革史には11記事、東急50年史には14記事(上年表では一つの記事でも時期が異なるもの<例えば免許申請と認可関連>は2つに分けているので16記事に数えられるが、東急50年史巻末年表では14記事となる)あり、取り上げる内容に差はあるが、ほぼ同内容のものが列挙されている。決定的に異なる越山体制から中島体制への移行は、正しくは1926年(大正15年)3月であるので東横沿革史が誤ったものとなる。ほか、同内容の記事は両書とも同じであり、いずれも官報等、他資料においても同様なので問題はない。
興味深いのは、東横沿革史年表には載っているが東急50年史年表には載っていない。あるいはその逆のものが見えることである。まず、東横沿革史年表にあって東急50年史年表にないものを列挙すると、
- 開通式挙行。
- 資本金を370万円に増加。
- 電車線路の終点を五反田に変更の件、許可される。
の3記事で、どの記事も高柳体制でのできごとである。開通式の有無は、式典の重要性が戦前と戦後では「重み」が異なるのではないかということ。資本金370万円増加の件は、結局のところ高柳体制下での虚飾(粉飾)に塗れたもので実際には行われなかった(1926年5月17日の記事がそれを受ける)ため、戦前は池上電鉄の失敗としてあげたが、戦後は重要でないとしたか。3つめの終(起)点の変更は、池上電鉄にとって重要なものだが、それ以上に目黒蒲田電鉄(東京横浜電鉄の前身)にとっても重要なこと(池上電鉄の方が早く目黒を起点としていたが、目黒蒲田電鉄の親会社であった田園都市株式会社が目黒までの支線を遅れて許認可を受けたが、資本力の差で先行開業に漕ぎ着けた。これにより起終点が目黒~蒲田と全く同一になり、池上電鉄は接続駅の再検討を迫られることとなった経緯がある)であり、あえて記したとも言える。一方、戦後のものは池上電鉄との確執はそれほど重要視しておらず(後述)、そのあたりのことは重要でないと判断して記載しなかったとも考えられる。(実際、関東大震災以降~大正末期は、池上電鉄に関する記事はほとんどないので、この時期の重要記事と思われる目黒駅から五反田駅への接続駅変更を載せなかった理由を考えた方がいいかもしれないが。)
一方、東急50年史年表には載っているが、東横沿革史年表には載っていないものを列挙すると、
- 本社を東京市神田区小川町35に移転。
- 慶大グランド前駅新設。
- 本社を荏原郡大崎町大字桐ヶ谷362に移転。
- 雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許申請。
- 雪ヶ谷~蒲田間複線工事竣工。
- 調布大塚駅新設。
- 乗合自動車業営業開始。
- 雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許許可。
の8記事で、興味深いものはやはり奥沢線(新奥沢線)に関連する記事(上では太字とした)が東横沿革史年表にはまったく見えない点だろう。ほか、本社移転記事、新駅等の新設・異動記事、乗合自動車関連記事は、続く1928年(昭和3年)以降にも東横沿革史年表ではまったく見えないので、掲載基準としてどうだったかという判断で決まったと見る。
では、通してみて気になる点といえば、当blog記事で取り上げた慶大グラウンド前駅の件について明らかにしたように(「池上電気鉄道 慶大グラウンド前駅について(確定編)」ほか)、慶大グランド前ではなく慶大グラウンド前が正しいこと。また、雪ヶ谷~国分寺間の免許許可を10月6日としているが、是に関しても当blog記事(「池上電鉄奥沢線(新奥沢線)の歴史を探る その8」ほか)を参照すればわかるように、10月6日という日付は一切出てこない。何か理由があって、この日付としたのかもしれないが、本文中と矛盾した日付でもあるので、年表側の記載ミスの可能性が高い。
といったところで、今回はここまで。
最近東京近郊電車案内という1926年5月発行の雑誌の抜粋のコピーを都立図書館から入手しましたが、池上電車の項で、本社は大崎町谷山138番地であり社長は中島久万吉となっているので、川崎第百銀行の中にあったのでしょう。私の記憶では中原街道と環状六号線と交差する角にあったように思います。この案内書は雪谷迄しか開通しておらず、近く五反田迄の工事に着手し、途中駅を、洗足、馬込、中延、平塚、北耕地の五カ所を予定しており、完成したら池上大森間に着工する旨記載されておりますが、用地買収は全く進捗してなかったので夢物語に終わったのでしょう。石川台は予定に入っていなかったようですね。また蒲田と雪谷の間の運転間隔を10分と記載されていますが、単線であればこの程度が限度でしょう。それに対して目蒲電車に関してはかなり詳しく名所案内が記載されており、運転区間も目黒と横浜、目黒と蒲田の間の双方が運転されていることが記載されており当時からかなり差を付けられていたことが分かります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/06/25 18:09
コメントありがとうございます。
本社の場所が大崎町谷山138番地、とあるのが気になったところ。「昭和初期の池上電鉄大崎広小路駅周辺を見る」記事に大崎広小路駅周辺の地図を載せましたが、138番地というと駅南側の奥まった場所になります。果たして、この場所に本社があったのか…?
投稿情報: XWIN II | 2012/06/26 07:25
東京近郊電車案内によれば、池上電鉄が雪谷で足踏みしている時、目黒蒲田電鉄は目黒蒲田間と目黒横浜間を15芬間隔で運転されていると記載されています。城南地区は既に内堀迄埋められてしまった状態では、川崎財閥も抗戦をギブアップしたのも当然でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/06/29 18:08
コメントありがとうございます。
雪ヶ谷までの盲腸線かつ単線だった頃の営業成績が振るわないのは、なかば自明のことではありますが(当時、どこで上り下りの交換を行っていたのかは未調査ですが、起終点の蒲田と雪ヶ谷、中間の池上と予想)、五反田まで全通と複線化によって乗降客数が著しく伸びたことは東横沿革史の統計からわかります。だからこそ、目黒蒲田電鉄は敵対的株式買収による合併を選択したと思うので。
高柳体制のままであれば「座して死を待つ」のを横目に眺めていればよかったものが、川崎財閥の登場でそうはならなくなった。ただ、勝算のない戦いに見えたのも一方であったからこそ、驚天動地の買収が可能になったとも思いますが。
投稿情報: XWIN II | 2012/07/01 08:33