« 1926年(大正15年)9月16日付 官報記事での東横電鉄と池上電鉄 | メイン | 昭和初期の杉並町(現 杉並区)にあった地名 »

2012/05/23

コメント

諏訪分に祖母が住んでいたことがあり、たしか枕木がまだ残っているという話を聞きました。廃線に際して調布女学校の生徒の通学のために調布大塚と田園調布の間のバスが調布学園を経由することを要求していることが公文書に掲載されてますが、同校は城南で有力な地位に在ったのでそれに配慮したのでしょう。

鉄道が廃止されてバス運輸に代替というのは、今日では珍しいものではありませんが、昭和10年という時期にバス代替というのは事象そのものが珍しいように思います(いわゆる路線バスの歴史からすれば10年程度しか経過していない時期ですし)。それだけ自動車の普及は目覚ましかったというべきなのかもしれませんが…。

昭和10年と言えばバス輸送の最盛期であったように記憶しております。国産車もありましたが、やはりFORDとCHEVROLETがかなりのシェアーを占めていました。道路も狭く、すれ違うのもやっとの所が多かったように記憶しておりますが、戦争によるガソリン不足のために木炭車が走り出したのもその後3/4年後のことで、日本人の芸の細かさには感心しますね。

コメントの確認

コメントのプレビュー

プレビュー中です。コメントはまだ投稿されていません。

処理中...
コメントを投稿できませんでした。エラー:
コメントを投稿しました。コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。 さらにコメントを投稿する

入力された文字と数字は画像と一致していません。再度入力してください。

最後に、下の画像の中に見える文字と数字を入力してください。これはプログラムを使ってコメントを自動的に投稿するのを防ぐために行われています。

画像を読み取れない場合は 別の画像を表示してください。

処理中...

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

アカウント情報

(名前とメールアドレスは必須です。メールアドレスは公開されません。)

2024年1 月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31