以前にも記したように、古い官報を読み漁っている日々が続いているが、今回は当blogでも何度も採り上げている池上電気鉄道奥沢線(新奥沢線)の死亡公告とも言うべき、1935年(昭和10年)11月30日付け官報に掲載された記事を紹介する。
以下に書き起こせば(漢字は現在のものに置き換え)、
鉄道一部運輸営業廃止実施
本年九月十九日目黒蒲田電鉄株式会社ニ対シ雪ヶ谷、新奥沢間鉄道運輸営業廃止ノ件許可セル処 本月一日之ヲ実施セル旨届出アリタリ(鉄道省)
という何ともあっさりとした記事だが、必要十分な内容は持っている。既に池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄に合併されており、廃止申請は目黒蒲田電鉄が行ったわけだが、廃止許可後、およそ1か月半弱で廃止したのは当時としては長かったのか短かったのか、はたまた妥当だったのか…。
といったところで、今回はここまで。
諏訪分に祖母が住んでいたことがあり、たしか枕木がまだ残っているという話を聞きました。廃線に際して調布女学校の生徒の通学のために調布大塚と田園調布の間のバスが調布学園を経由することを要求していることが公文書に掲載されてますが、同校は城南で有力な地位に在ったのでそれに配慮したのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/05/24 19:43
鉄道が廃止されてバス運輸に代替というのは、今日では珍しいものではありませんが、昭和10年という時期にバス代替というのは事象そのものが珍しいように思います(いわゆる路線バスの歴史からすれば10年程度しか経過していない時期ですし)。それだけ自動車の普及は目覚ましかったというべきなのかもしれませんが…。
投稿情報: XWIN II | 2012/05/24 20:43
昭和10年と言えばバス輸送の最盛期であったように記憶しております。国産車もありましたが、やはりFORDとCHEVROLETがかなりのシェアーを占めていました。道路も狭く、すれ違うのもやっとの所が多かったように記憶しておりますが、戦争によるガソリン不足のために木炭車が走り出したのもその後3/4年後のことで、日本人の芸の細かさには感心しますね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/05/25 08:07