「緑が丘、地名の由来 その2」の続きと言えなくもないが、今回はこの回で掲載した
この地図。衾西部耕地整理組合事業地(現 東京都目黒区自由が丘)と衾東部耕地整理組合事業地(現 東京都目黒区緑が丘)を示したものだが、これを航空写真(1936年撮影)で示そうという企画である。
で、すいませんとまずはお詫びから。ちょっとばかり右端が欠けてしまった。これは奥沢駅方面との位置関係を示そうと気を遣っているうちに、外れてしまったのであった(苦笑)。
といったところで、今回は簡単にここまで…にしようと思ったが、なぜ鉄道駅が村境につくられやすいかについてふれておこう。
理由は明快で、土地が安く、かつ建物等がないからである。江戸期の村が明治中期に統合され大字化するが(大村は例外的に単独で一村を形成するものもあった)、村の中心部は少ないながらも家屋があり、その周囲にはその生計を成り立たせるべき農地があった。要は、そういう土地を手放すはずがなく、中心地から離れた村境に位置する土地から手放されるためである。これは大地主であればあるほどそういう傾向が強まり、洗足田園都市しかり、調布田園都市しかりである。また、東京圏の郊外住宅地のはしりといえる桜新町も同様である。大量の土地を手に入れるには、安価でなければならず、またまとまった土地でなければならない。それは村(大字)境になる、というわけだ。
といったところで、今回はここまで。
自由が丘南口商店街や大栢山北口商店街のように道を挟んで区が異なる理由が分かりました。有り難うございます。また自由通りが東横線に対して鋭角で斜めになっている理由も分かりました。何れにしても区画整理が小田急の下北沢,経堂のようにラビリンスのように一方交通が多いためタクシーが乗車拒否するにょうな無秩序な開発が行われなかったのは東急の功績でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/03/14 09:52
なるほど。確かに、目黒線、ひたすら目黒区と品川区の間を走っていますものね。勉強になります。
投稿情報: はひ | 2012/03/15 00:21