本記事は、「緑が丘、地名の由来 その1」(2008/12/13)と「緑が丘、地名の由来 その1.1」(2009/4/27)の続きになります。
随分とその2まで間が開いてしまったが、その1.1で理由を示したように江戸期以来のいわゆる「谷畑」地区が東西に分裂した原因を探ってはいたのだが、いかんせん地元民でもない私が単独で調べるのは限界があり、目黒区の図書館等の文献をあたるなどして探ったが、直接的な記述を見つけることができなかった。言うまでもなく、当時の方々のお話しを伺うのが確実とは言わないが、真実に近い話を得ることができるのだが、既に個人となられた方ばかり。唯一といっていいのは、衾東耕地整理組合長だった岡田衛氏が生前「目黒の近代史を古老に聞く」というインタビューを受けたものが書籍化されている。しかし、大変残念なことに質問者のレベルが低く、お茶を濁す話に大半が止まってしまっている。とはいえ、これが岡田氏の生の声であり、この文献「目黒区の近代史を古老に聞く 1」を参考に注目すべきところを確認してみよう。
まずは、本書の39ページから一部引用する。
関東震災で、ゆさぶられましたので市内の方が郊外へ郊外へと入ってこられ、このままで行ったら満足に地元は発展しないだろうというので、どうしても耕地整理をやらなくては駄目だということで今の緑が丘全域五十町歩余の皆さんに呼びかけまして衾東部耕地整理組合を設立いたしました。当時は耕地でなければ出来なかったんですが、将来の発展にそなえて道路などはなるだけ幅員の広いものをとやりました。法律で制限されてまして思うようにはやれませんでしたが、今緑が丘の交番がございますね、あれから緑が丘小学校(筆者注:緑ヶ丘小学校が正しい)へ行く道路は幅員が五間ということにしました。自由ヶ丘へ行く道は四間、一番せまい道が三間、それだけ坪数を潰して道路を作ったもんですから、岡田の耕地整理は贅沢だと嚇かされまして、地主からは迷惑だともいわれましたが、今になりますれば四間でもせまい位です。衾東部の方では五間で行きましたけれども衾西部はご承知のようにせまくなっています。これは衾東部の方で道路に土地を取り過ぎたなどいうのを逆手にとりまして道路はせまくなったのでしょう。
注目は、「衾東部の方では五間で行きましたけれども衾西部はご承知のようにせまくなっています。これは衾東部の方で道路に土地を取り過ぎたなどいうのを逆手にとりまして道路はせまくなったのでしょう」とある部分。その前にある「岡田の耕地整理は贅沢だと嚇かされまして、地主からは迷惑だともいわれました」も注目だが、まさにこの部分が谷畑地区が東西に分裂した理由だと考えられる。予想どおり、減歩率に関して地主間での対立があり、その結果が衾東部と衾西部に耕地整理組合が分裂して成立。その証拠は、耕地整理地域をまたがる道路の幅員が衾東部(緑が丘地区)から衾西部(自由が丘地区)では異なる(衾東部の方が広い)となるだろう。
一方、衾西部側からの意見も本書に記載されている。90ページより一部引用すると、
ここは耕地整理で農道を整備するというのが目的ですから、当時こんな広い道路にしてどうするんだと東京府のお役人に叱られたそうです。ですから自由が丘は道路が狭いというのはおそらく区画整理の出来来たとき(筆者注:出来たときの誤りと思われる)に一番道幅の狭い所なんです。ですから、戦後にそういう沿革を知らない代変りの店なんかにおいでになった方が自由が丘っていう所は地主が自分の土地を、取られないように道幅を狭くしたのだろうなどといわれました。私は即座にそうではないんだと、大体道路が広すぎるとお役人に叱られたけれども地元の方々は草を取ったりしますという事で認可を受けたそうです。だから道が一番広くても四米から八米弱の道路が、自由が丘では一番広い道路です。狭い所は二間、公道では二間、一間の所もあるとそんな所で世田谷区の方はこちらよりずっと広いですから、ずーっと行きまして道路が広くなるとここから世田谷区だと判ります。
このコメントは杉村氏のものだが、この方は衾西部耕地整理組合に関わった方ではない。おそらく、子供の頃に聞いた話としての伝聞だと思うが、いわゆる当局の指導によって道幅を広くできなかったとしているが、この論拠が弱いのは、当時多数の耕地整理組合が耕地整理事業を行っている中で、衾西部よりも広い道路で認可されている例が多数あるからである(衾東部はもちろん、既に田園都市株式会社が洗足や多摩川台=田園調布の耕地整理を先行して実施している)。これは推測だが、杉村氏の親の世代(つまり衾西部耕地整理組合に関わった人々)が「言い訳」として吹聴していたものを伝聞として理解したのではないだろうか。やはり、親族の言う話は大前提として信ずるものであるし、それが子供の頃なら言うまでもないからである。こういうことが、古老の聞き取りを真実として鵜呑みできない危険なところであり、一方的な話だけで判断すべきでないとなるだろう。
また、衾西部耕地整理組合長だった栗山久次郎翁のご子息である栗山氏のコメントも注目される。104ページを一部引用すると、
実はその耕地整理は大正十二年の震災後、大正十三年ですけれども谷畑だけで東も西も一緒に最初は計画したんです。所が途中で私も良く知りませんが折合が悪くなって東は東、西は西になってしまい、そして私の方が最初に手がけまして岡田衛さんが組合長になられて大正十三年にはじめまして昭和四年に完了しました。丁度私の家が耕地整理組合の事務所になっていましたので、そういう事を知っておるんで。
と重要なこと(なぜ東西に分かれたのか)はわからず仕舞いだが、当初はやはり谷畑地区として計画していたことが確認できる。折り合いが悪くなった理由とは、先に岡田衛氏のコメントにあった「衾東部の方では五間で行きましたけれども衾西部はご承知のようにせまくなっています。これは衾東部の方で道路に土地を取り過ぎたなどいうのを逆手にとりまして道路はせまくなったのでしょう」だろう。五間では広すぎる、八米弱(=四間)で十分だとしたのが衾西部であり、これが東西分裂の端緒であるのは、岡田衛氏、杉村氏、栗山氏のコメントで確認できる。
では、このあたりで荏原郡碑衾村大字衾の谷畑地区の耕地整理組合が東西に分裂した理由について、総括してみよう。当初、谷畑地区で耕地整理組合を設立しようという動きは、関東大震災をきっかけとした東京市民の郊外への人口移動に始まる。加えて、既に開通していた目黒蒲田電鉄の目黒駅~丸子駅(現 沼部駅)の途中駅、奥沢駅に隣接した地域であったことから、奥沢駅までの農道を拡幅(現在の自由通りに相当)しようという直接的な理由から耕地整理組合を設立しようとなった。無論、周辺で田園都市株式会社による耕地整理や東京横浜電鉄の計画路線も当地区を通過するという理由も後押しした。
ところが、いざ耕地整理組合を設立し、どのような耕地整理(区画整理)をするかによって地主間での対立が深まり、減歩率の多寡によって東西に分裂して耕地整理組合が設立された。それぞれ衾東部と衾西部と名乗り、それぞれが異なる設計で耕地整理が実施された。もちろん、異なる設計とはいえ隣接する区域であることから、道路の接続等は協調して実施されたが、道幅までは完全に揃えられなかった。
また、耕地整理前の状態で東西に分割すると整理後の土地区画に問題が生ずることから、あらかじめ面積按分で東西の区画を直線的に定め区割した。結果、もともとの土地の区割であった字単位での境界は無視され、一つの字が衾東部と衾西部にまたがるようになった。しかし、耕地整理後はかえって字単位での境界が不自然なものとなり、衾東部では新たな字区画を設定し新地番を付号。衾西部では新たな字区画を設定するのではなく、衾西部のすべてを新大字である自由ヶ丘として設定し、新地番を付号した。これが確認できる資料として、昭和6年(1931年)発行の碑衾町発行の地図(部分)を見てみよう。
水色の線で囲んだ部分は、谷畑地区における耕地整理を行った区域(北部は道路で区切ったため正確ではない)であり、赤色の線は衾東部耕地整理組合と衾西部耕地整理組合との分割線である(作図に失敗して上部がやや左寄りとなってしまった…)。最初は、東西一体で行う予定であったが、赤色の線の部分で東西に分割され、それぞれ別の設計で耕地整理が行われた。ご覧のように衾東部(図の右側)の方が街区パターンに余裕が感じられる。また、先に説明したように、衾東部は耕地整理後に字の区画整理と新地番を付定したので土地の区画も整然としているが、衾西部は大字自由ヶ丘となる前(申請中)だったので、道路は直線化されているが、字界及び地番界は旧来のままであり錯綜している様子が伺える。なお、縮小し過ぎて見にくいとは思うが、自由ヶ丘駅周辺の区画(谷権現前とある辺り。戦前なので図では前現権谷と表記)は、耕地整理では作られなかった道路が点線で表記されているが、耕地整理後から早くも土地利用の細分化が確認できる。まさにこのことが、谷畑地区の耕地整理組合を東西に分けた理由だとなるだろう。
こうして東京市への編入直前には、元は同じ谷畑地区(第7区)だったものが、衾東部、衾西部と分かれて以降、それぞれ緑ヶ丘、自由ヶ丘と町名も分かれたのである(正確に記せば、衾東部耕地整理組合=緑ヶ丘、衾西部耕地整理組合=自由ヶ丘ではなく、微妙に重ならない部分はある)。ただ、東西に分割した際の直線では、一部に不合理な部分ができたことから、自由ヶ丘と緑ヶ丘の境界は一部変更された。
以下、その3に続きます。
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