東京スカイツリーつながりで、もう一回。当blogとしては、地域歴史研究的視点で東京スカイツリーの場所が、かつてどうだったかを振り返っておきたい。
まずは、現在から。そして、昭和11年(1936年)の航空写真では──
このあたりは、関東大震災後の震災復興事業によって区画整理が成されており、基本構造は大きく変わっていない。ただ、押上駅は地上にあって、ここから今日の浅草通りを走る東京市電へ乗り入れてやるぞという意欲が強く感じ取れる点が大きく異なる。京成電鉄の歴史を辿れば、上野乗り入れ前はこの押上駅から先、東京市内へと乗り入れようとしていたので、東武鉄道が浅草まで乗り入れた際は押上駅の地位は大きく低下してしまった(さらに京成上野駅ができていこうはなおさら)。
しかし、東武鉄道は長い間、浅草駅から先には行けず、京成電鉄は都営浅草線と相互乗り入れを実現して都心部まで通ずることで立場は逆転。日比谷線や半蔵門線との相互直通運転を実現した今日では、再び東武鉄道が逆転した感があるが、業平橋駅改めとうきょうスカイツリー駅は特急を停車させるようにしたものの、微妙な立ち位置にあるのが現実。
と、こんなところで今回はここまで。
東京乗り入れに関しては、地方議員が連座する疑獄事件で電鉄の役員が逮捕される程熾烈な政治運動が展開されましたが、都市間高速鉄道(インターアーバン)の車輛を急カーブと急勾配が連続する路面電車の線路に乗り入れること自体が木に竹を接ぐような矛盾を孕んでいるので所詮初めから無理であったことを思うと当時の経営者の認識不足が目立ちます。このネックをクリアーするために大江戸線のように最初から車長を短くしてある例もあります。中目黒駅を出た所の急カーブで脱線事故を起こしたのもその根っこは此の問題だったと思います。
余談ですがこの貨物ヤードで英国製のSLが貨車の入れ替えを行っていた光景が思い出されます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/03/19 10:55