なかなか興味深い本を店頭で見かけたので、すかさず購入。それが──
「仏独共同通史 第一次世界大戦 上・下」(著者:ジャン=ジャック・ベッケール,ゲルト・クルマイヒ。訳者:剣持 久木,西山 暁義。発行:岩波書店)である。帯には「国民国家の枠組みを超える画期的通史」「ヨーロッパ統合過程の出発点」とあるように、いわゆる戦史的な読み物ではなく歴史書である。本書がどのようなものなのかは、著者の「日本語版への序文」及び「まえがき」の一部を引用して示せば、
「大戦から長い年月を経て、ようやく、フランスの歴史家とドイツの歴史家が第一次世界大戦について共同で執筆したはじめての書籍が刊行されることになった。我々二人の両親や祖父母たちは敵対する陣営で大戦を経験し、その経験はライン川の両岸ではまったく異なった形で受け止められてきたのである。それゆえ、この異なる大戦の記憶を突き合わせて考察することは、私たちにとってより一層挑戦しがいのある課題となった。読者諸賢には、この点も留意しつつ、本書を読んでいただければ幸いである。忘却の彼方に沈む危険もあるこの大戦の相貌を、ささやかではあるが可能なかぎり偏らないまなざしで理解する試みとして書かれた本書を、ヨーロッパから遠く離れた地においても読んでいただくことを期待してやまない。」(以上、「日本語版への序文」より一部引用。)
とあるように、仏独間の確執を越え、共同作業による執筆であったことがわかる。そして、その手法は、
「さらに歴史研究の面においても、いくつかの障害が取り除かれなければならなかった。ドイツの歴史家であろうとフランスの歴史家であろうと、戦争にかんするアプローチは「当たり前のように国民的〔一国史的〕」なものであったことは言を俟たない。他者の歴史を理解しようとする用意はほとんどなかったのである。その克服のためには、一種の実習のようなものが必要であった。その実習はその多くをペロンヌの大戦歴史博物館の設立に負っている。そこでは、第一次世界大戦の歴史が国際的なチームによって「書かれ」、ともに研究し、問題をともに理解するということが習慣となった。このような戦争の歴史はもはや国民単位のものではあってはならないし、またそのような一国史的枠組みは重大な誤認をもたらすことになるであろう、と考えられるようになったのである。そのうえ、ペロンヌの歴史博物館自体がすでに新しい歴史の構想の成果であった。そこでは事件史は決して軽視すべきではないとされたが、つねに戦前、戦中、戦後における関係する諸国民──兵士であろうとなかろうと──の世論や心性、文化と統合することが求められた。その基盤となるのは、「心性の政治史」とも呼びうるものでなければならない。この文脈において、仏独の側面を強調する第一次世界大戦史を書く試みは、ようやく具現化することになったのである。」(以上、「まえがき」より一部引用。)
に端的に示されているとおり、国民的なナショナリズム(史観)を廃した先にある。我が国や東アジアの歴史を国民的視点で語ることが目立つが、何とも恥ずかしいかぎりである。と、それはともかく、新たな試みで綴られた第一次世界大戦の通史を楽しむことができるのが本書だとなるだろう。
では、最後に本書(上・下)の目次を列挙して、今回はここまで。
- 第一部 なぜ仏独戦争なのか?
第一章 世紀転換期におけるフランスとドイツの世論
第二章 一九一一年以降の仏独関係の悪化
第三章 一九一四年七月の危機 - 第二部 国民間の戦争?
第四章 フランスの「神聖なる団結」とドイツの「城内平和」
第五章 戦争の試練に立つ政治体制
第六章 「神聖なる団結」と「城内平和」の変容
第七章 メンタリティーと「戦争文化」
第八章 士気とその動揺 - 第三部 前代未聞の暴力を伴う戦争?
第九章 人間の動員
第一〇章 産業の動員
第一一章 戦場の暴力
第一二章 民間人に対する暴力 - 第四部 なぜかくも長期戦になったのか?
第一三章 神話となった短期戦
第一四章 勢力均衡
第一五章 講和の試み - 第五部 やぶれた均衡
第一六章 ドイツ優位への均衡解消
第一七章 勝利と講和
第一八章 戦後
(以上は、まえがき等を除いた目次。なお、「神聖なる団結」はユニオン・サクレ。「城内平和」はブルクヒリーデンと仮名がふられている。)
大正生まれの人間としては、南京陥落で提灯行列に浮かれ、銀座通りがナチスの旗で埋め尽くされた光景を思い出します。マスコミに踊らされた大衆が一旦走り出すと流れを止めるのはほぼ不可能で、そのときは日本中が焼け野の原になるとは誰も思ってもみませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/03/20 12:34