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2012/03/19

コメント

東京乗り入れに関しては、地方議員が連座する疑獄事件で電鉄の役員が逮捕される程熾烈な政治運動が展開されましたが、都市間高速鉄道(インターアーバン)の車輛を急カーブと急勾配が連続する路面電車の線路に乗り入れること自体が木に竹を接ぐような矛盾を孕んでいるので所詮初めから無理であったことを思うと当時の経営者の認識不足が目立ちます。このネックをクリアーするために大江戸線のように最初から車長を短くしてある例もあります。中目黒駅を出た所の急カーブで脱線事故を起こしたのもその根っこは此の問題だったと思います。
余談ですがこの貨物ヤードで英国製のSLが貨車の入れ替えを行っていた光景が思い出されます。

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