前回のタイトルに「続・」と付けてみたが、素材が同じだけで「町」の読み方云々ではなく、それ以外に気づいた点を徒然と記していこうという試み。
まず、昭和40年(1965年)という時代は住居表示制度が始まって2年程度が経過したほどで、多くの地域ではその途についたばかりのところがほとんどだった(東京都荒川区のようにモデル地区となったところは別)。東京都渋谷区も同様で、住居表示制度を実施していたのはわずかに松濤一丁目、松濤二丁目、神山町、大山町、上原一丁目、上原二丁目、上原三丁目、富ヶ谷一丁目、富ヶ谷二丁目だけであり(ただし、いずれも昭和38年(1963年)7月1日と早い時期に実施されている。なお、住居表示制度において単独町=丁目が存在しない や町と付く名は政省令で認めていなかったが、渋谷区は早くも神山町と大山町でこれをやぶっている。誰が言い出したか知らないが板橋区相生町が丁目なし、町付きの元祖という説が吹聴されているが、相生町の成立及び住居表示は昭和38年11月1日であるので、神山町や大山町よりも4か月遅れなのである)、他は昭和7年(1932年)渋谷区成立時の町名、地番を引き継いだものか、昭和30年代に地番変更等で町名や地番が変更したものであった。
昭和30年代に町名・地番変更が成されたのは、
- 恵比寿東(えびすひがし)
- 恵比寿西(えびすにし)
- 恵比寿南(えびすみなみ)
- 本町(ほんちょう)
- 幡ヶ谷(はたがや)
- 笹塚(ささずか)
- 代々木(よよぎ)
- 初台(はつだい)
- 元代々木町(もとよよぎちょう)
- 西原(にしはら)
- 千駄ヶ谷(せんだがや)
で、恵比寿地域については「東京都渋谷区、町名変遷の歴史──昭和時代編その4」でふれたので、残る地域を確認すると、いずれも旧代々幡町に属し、本町、幡ヶ谷、笹塚は大半が旧代々幡町大字幡ヶ谷に属した。言い換えれば、幡ヶ谷地域は渋谷区成立時、旧渋谷町エリアと異なり旧大字・小字のまま町名変更だけ行った地域であるとなる。旧代々幡町大字幡ヶ谷は、渋谷区成立時に幡ヶ谷本町(はたがやほんちょう)一丁目・二丁目・三丁目、幡ヶ谷原町(はたがやはらちょう)、幡ヶ谷中町(はたがやなかちょう)、幡ヶ谷笹塚町(はたがやささづかちょう)となったが、これが町名・地番整理で、
- 幡ヶ谷本町(はたがやほんちょう)→ 本町(ほんちょう)
- 幡ヶ谷笹塚町(はたがやささづかちょう)→ 笹塚(ささづか)※ささずかでないと考えるのでこう表記した。
- 幡ヶ谷原町(はたがやはらちょう)+幡ヶ谷中町(はたがやなかちょう)→ 幡ヶ谷(はたがや)
だいたいこのようになった。このうち、本町(ほんちょう)は幡ヶ谷本町(はたがやほんちょう)に由来するので、本町(ほんちょう)と読ませたのだが、隣接する中野区に本町(ほんちょう)を先取りされ(渋谷区本町は昭和35年成立、幡ヶ谷本町から通算すれば昭和7年成立だが、住居表示は昭和43年1月1日。中野区本町は複数の町の合併で本町通という昭和初期の名から採用したが、本町としては昭和42年6月1日住居表示により成立)、隣接区かつ隣接地に同じ町名は許されないとなったので住居表示の際、やむなく本町(ほんちょう)から本町(ほんまち)へと読み方を変えたのである。
そして、やはり気になるのは「神南町(かんなみちょう)」とあるところで、これについては以前「渋谷区神南は、いつから「じんなん」と呼ぶようになった?」という記事で採り上げたように、戦後からは「神南」を「かんなみ」でなく「じんなん」と読むようになったはず。だが、昭和40年という時点で渋谷区政概要に「かんなみちょう」とふりがながあるということは、やはり「かんなみ」とこの時点でも読まれていたのだろうか?という疑問が出てくる。公式には「かんなみ」で俗称として「じんなん」。それが住居表示で神南が誕生したときに「じんなん」と公式に読むようにしたのか…。
といったところで、今回はここまで。
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