写真が発明されたのは19世紀に入ってからで、飛行機の発明は20世紀に入ってから。つまり、はるか上空からの写真は20世紀に入ってからのものと思いがちだが、それ以前に気球というものがあり、19世紀中にはいわゆる航空写真のようなものは撮影されていた。とはいえ、カメラもフィルムも、ましてや飛行するものすべてを整えるというのはなかなか困難であり、資金豊富な組織でないとなかなか実現できるものではなかった。
我が国においても、航空写真(空中撮影)が航空機(飛行機)によって本格的に撮影されるようになるのは、大正年間に入ってもまだまだ(そもそも我が国での動力飛行機による初飛行は1910年(明治43年))で、第一次世界大戦中に飛躍的に飛行機が発展して以降のこと。ようやく昭和初期に参謀本部陸地測量部による地図作成に空中写真併用手法が採用される。
そして、昭和7年(1932年)に東京市が周辺町村を合併することが決まった前後、長年続いた町村の歴史を想い、町村史の類が多数出版されるようになるが、これらのうちに当時としては高額だったと思われる航空写真(空中撮影)が載っているものがいくつかある。その一つが現在の東京都目黒区の前身の一つである荏原郡碑衾町が発行した「碑衾町誌」である。そのうちの一枚を洗足田園都市がらみで一部ご紹介しよう。
碑衾町史に掲載されている複葉機からの撮影。予算的に地図的な撮影は無理だったようで、鳥瞰的な撮影方法によっているが、貴重なものであることに違いはない。もともと白い文字で絵解きはあるが、碑衾町史なので他地域の絵解きはないため、黄色い文字で補完した。黄色い線は、大岡山駅付近までしか記していないが、目黒蒲田電鉄線(目蒲線。現在の東急目黒線)を表している。都市化が進む目蒲線沿線と「碑校」「大岡山校」「八雲校」とある尋常小学校あたりがまったく開発が進んでいない部分とのコントラストが目立つ。いわゆる碑文谷地域は、大正中期に結成され後期までに工事完了した「碑文谷耕地整理組合」が施工した地域と、碑文谷本村というべき地域の中心部の耕地整理未実施地域とが、関東大震災という天災後の発展を大きく左右したのである。
ただ残念なことに、肝心の洗足田園都市は複葉機の羽に隠されてしまっているため、駅西北部あたりの様子しかうかがうことができない。しかし、武蔵小山~西小山あたりの住宅密集度と洗足駅周辺のそれと比べれば明らかに異なることは確認できる。
ほかに注目ポイントとしては、大岡山駅周辺に見える東京工業大学の建物群。「大岡山駅」と黄色い文字で書いた下に見えるのは、今は住宅地となった大学の建物群である。東工大は、田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)と等価交換を含め、様々な土地売買を行っており、特に昭和初期の異動は激しいものがある。
といったところで、今回はここまで。
風防の無い陸軍の偵察機の座席から身を乗り出してカメラを構えて撮影したのでしょうか、尾翼のようなものが写って居ます。満州事変当時石原参謀が偵察機に乗って錦州方面に出掛けた時に上層部から参謀ともあろうものが危険な飛行機にのるとは何たることだとお叱りを受けたとの記述がありますが、当時の一般常識はそんなものだったのでしょうか。民間でも飛行機写真は撮影されていたと思いますが、この種の写真は日本地図センターにしかないようです。プリントアウトも結構高価ですね。
また次の記事を楽しみにしています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/02/26 16:48
追伸
当時少年雑誌に88式偵察機が掲載されていましたが、資料に寄るとエンジンはBMWを使用していたようですが、その後短期間で零戦を開発した先人の努力に頭が下がります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/02/26 17:28