「こちら東工大130年事業事務室です!」というブログがあり、この中にある「東工大、今日の一枚(73)」という記事に、かなり致命的な誤りがあると読者の方から教えていただき、確認してみた(2011年7月11日午前6時現在)。
キャンパスを横断しているのは、ご存じの通り東急大井町線と目黒線です。調べたことはありませんが、キャンパスが鉄道で分断されている大学はかなり珍しいのではないかと思います。
しかし、実は、大岡山キャンパスの造成当時はキャンパス内に線路はありませんでした。
というより、当時、大井町線は大岡山が終点だったんです。大井町線が二子玉川まで繋がったのは1929年のことで、この延伸のために大岡山キャンパスは鉄道で分断されることになったのでした。(ただし、当時はキャンパス自体が繋がっていなかったのですが)
うん、確かにおかしい。投稿者「東工大130事業事務室」の方は、大井町線と目黒線の2線の存在を理解しているはずなのに、目黒線(かつての目蒲線)の存在を忘れてしまったのだろうかと思える記述となっている。目黒線(今の目黒線ではなく、目黒蒲田電鉄が最初に開業させた目黒~丸子=現 沼部間を指す)は、大正12年(1923年)3月に開通し、これは関東大震災の起こる前、つまり現在の東工大がこの地に移転する前(関東大震災がなければこの地に移転してこなかった可能性が高い)のことである。そう、大岡山キャンパスは最初から目黒線(目蒲線)に分断、というか鉄道の両側の敷地に展開していたのだ。
これを大井町線に限るのであれば、記述は誤っているとはならない(ヘンな表現にはなるが)。
しかし、実は、大岡山キャンパスの造成当時はキャンパス内に「大井町線の」線路はありませんでした。
というより、当時、大井町線は大岡山が終点だったんです。大井町線が二子玉川まで繋がったのは1929年のことで、この延伸のために大岡山キャンパスは「大井町線の」鉄道で分断されることになったのでした。
まぁ、誤ってはいなくなったがヘンだ、これ(笑)。ちなみに東急線の北側には、今は住宅地となってしまったが現在の東京都大田区北千束一丁目あたりにもキャンパスが広がっていたが、緑が丘方面にはまだなかった。しかし、今の蔵前会館あたりは当初からキャンパスであったので、かつてキャンパスだったところを除くとしたにしても、最初から目蒲線(現 目黒線)線路で分断されていたことに変わりはない。要は、この記載=「大岡山キャンパスの造成当時はキャンパス内に線路はありませんでした」は誤りであるということである。
東工大130年事業事務室というからには、自身の歩んできた歴史を誤って表現してしまうことは避けた方がいい。一般的には本家が誤ったことを書くはずがないという前提があり、これが流布されないとも限らないからだ。早々に記述誤りを直してほしいと願いつつ、今回はここまで。
キャンパスの南北分断
陸地測量部の碑文谷の地図を見ると大井町線は大岡山止まりとなっており、北部と連絡する橋は公道となって大岡山商店街の西側の道に連絡しています。従って町を南北に分断したのは東工大であって東急ではありません。連絡橋はかなり長く立派なものですが、現在の目的はキャンパス同士の連結のためで、外部の人間の北側と土地と行き来には使用できません。
余談ですが目で見る大田区100年の60頁の東工大は大岡山駅北口を南部宅地と等価交換するまえの東工大のキャンパスン入り口のようです。運送店の看板が見えますがそのすぐ後ろが貨物専用ホームでした。貨車を電気機関車で牽引して菊名の連絡線経由で国鉄と連絡していました。運送屋さんはたしか地元の鈴木さんであったと記憶しております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/11 15:34