「誤り目立つ「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」」という記事で「目で見る品川区の100年」(郷土出版社)の70ページの誤りを見たが、今回は誤りの指摘ではなく(結果として誤りの指摘となる場合があるがそれは重要ではない)、定説というものを覆すと言うことがいかに困難かを知る指標として理解していおきたい。なお、本記事もコメント欄にお寄せいただいた情報から記(起)事としており、なかなか直接コメント欄にお答(応)えできなくて恐縮だが、このように記事として示していきたいと考えている。では、前振りはこのくらいにして、今回ターゲットとするのは「目で見る品川区の100年」の73ページにある3枚の写真についてである。
この写真は、いずれも私は本書にて初めて見るものばかりで、いずれも興味深いものばかりである(引用には限界があるので、この程度でご勘弁を)。それぞれの絵解き(写真解説文)を見ると、1番上の写真は、
池上線開通式典(昭和2年)
池上線は大正11年10月、池上本門寺参詣のために蒲田─池上間に開通したのが始まりである。同12年5月には雪ヶ谷まで延び、さらに旗ヶ岡や戸越銀座・桐ヶ谷に達したのが、8月28日だった。地元の旗の台では、この開通を喜んで式典が行われた。
とあり、池上線(当時は池上線とは呼ばず、池上電気鉄道線あるいは単に池上電車等と呼んだ。池上線となるのは目黒蒲田電鉄に合併された昭和9年以降である)と思しき鉄道の踏切を正装した人たちが渡り初め?をしているような様子が覗える。踏切付近は更地だが、写真奥手の方は住宅が建ち並んでおり、遠くには煙突が見える。これが本当に昭和2年(1927年)8月28日当日だとしたら実に興味深い写真となる(後述)。
そして上から2番目の写真は、
目黒蒲田電鉄(目蒲線)開通(大正12年)
渋沢栄一の「田園都市構想」で始まった目蒲線は、関東大震災後に工事を急ぎ、11月には全線開通した。この事業で活躍したのが、鉄道院の課長で渋沢に見出され、のちの大東急を築いた五島慶太である。写真にはその五島が写っているらしいが、どの人物かはっきりしない。
とあるが、この解説文の誤りもすごいがそれ以上に驚愕なことは、一体この写真はいつ、どこで撮影したものかという究極の疑問である。絵解きには目黒蒲田電鉄、そして大正12年(1923年)とあるのだが、現在の品川区域にあたる地域で目黒蒲田電鉄線の駅は、目黒、目黒不動前(現 不動前)、小山(現 武蔵小山)と3駅存在するが、この写真はそのいずれでもなさそうに見えるのだ。というのは、写真奥に見える神社のような囲い(境界柵とでも言おうか)とさらにその奥に見える木々が鬱蒼とする裏山が、この3つの駅予定地にはないからである(無論、大正12年当時)。それではと──、とこれも長くなるので後述としよう。
で、最後の上から3番目の写真は、
池上線開通の記念写真(昭和2年)
池上線の蒲田─五反田間の開通は、大田区の住民はもちろん、品川区の大崎や荏原の住民にとっても大きな喜びだった。写真は旗の台の通称「どんどん橋」辺りで、地元の名士たちが跨線橋の上で記念撮影を行ったときのもの。
とあり、五反田までの全通が昭和2年でなく翌年の昭和3年であるのは置いておいて(写真撮影は昭和2年8月28日だろうから)、この写真が本当に通称「どんどん橋」辺りなのかについて、コメント欄を頂戴したことから分析していくつもりである。
と以上、当該ページ3枚の写真についての絵解きを確認したので、個々の分析と行こう。まずは1枚目、昭和2年(1927年)8月28日の雪ヶ谷~桐ヶ谷間開業時の踏切渡り初めと思しき写真だが、私にとって3枚中最も注目したのがこの写真である。どこに注目したのか! と言えば、まずこの踏切がどこなのか、という点から確認していこう。
写真を見ると、複線線路と踏切道がほぼ直交していることがわかるが、いわゆる旗の台地域とされる(ここでは旗ヶ岡駅~長原駅間でかつ現在の品川区域としよう)域内で、池上線と道路がほぼ直交するのはわずかに2か所しかない。
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ゼンリンの電子地図で示したように「ここ」とした箇所(東京都品川区旗の台五丁目12, 22番から同13, 19番にかかる所)と、そこから南西方向(左下方向)にある品川区と大田区の区界にあたる所である。ちなみにこの区界の箇所は、現在は跨線橋となって池上線を渡る格好となっているが、開通時は平面交差である。また、両踏切に挟まれる形となる場所は当初から跨線橋で、これが3枚目の写真の絵解きに書かれる通称「どんどん橋」であり踏切ではない(3枚目の写真考察は後述するので、ここではこう書いておく)。よって、池上線と直交する道路(踏切)の候補は2か所となるが、実際に現地に行ったことのある方であれば、区界ではない方がこの写真の場所と確信するはずだ。
ご覧のように区界の道路は狭く、昭和43年(1968年)に池上線連続立体交差(この時は環七通りに対して)によって架橋された橋も道幅に合わせて狭い。つまり、あの写真にあるような道幅でないので、これではないとなるのである。
一方、もう一つの候補である踏切は周りの風景は異なっているものの、道幅については同じように見える。また、地形的にも写真左側から右側にかけて下り斜面となっていることからも、このことは確認できる。あの写真もやや高い所から踏切を見下ろすようになっているが、私有地のため中に入りはしなかったが、現在でもあの角度から撮影することは可能であり、そのような写真が撮れればさらに確実だと思う。
だが、話はそう単純ではない。と長くなったので、いったん続きます。
ありがとうございます。
本日、実は、洗足池図書館に「目で見る大田区の100年」を借りにいきました。
友人が品川区なので、隣区である大田区図書館から、この本が借りられるのです。
そして、実家で皆で品川区の100年含めて、わいわいと検討し。
どんどん橋を見にいきました。
何か……違うような気がするのですが……よくわからない。
本当にどんどん橋なのだろうか?では幻の跨線橋は?
みたいなことで、踏切際で盛り上がっていたら。池上線がえらい警笛ならして、徐行運転。実は、昨日と一昨日。池上線への飛び込みが続いたんだそうです。
池上線への飛び込みなんて、めったにありません。それも2日連続なんて……
我々も、警笛鳴らしまくりの、徐行の、池上線という珍しい風景を見ることになりました。
投稿情報: りっこ | 2011/06/26 22:41
おはようございます。
地図を広げての勝手な推測ですが、この踏切は、当時の旗ヶ岡駅に一番近い、旗の台3丁目12番地あたりかも。現在子育て地蔵尊のある、さらにもう少し荏原中延寄りの踏切です。
開通当時、まだ子育て地蔵尊はありませんでしたし、駅前は結構広い広場でした。
平成に入ると、ここの踏切はなくなっていますが、昭和43年当時にはありました。
そして、昭和43年の住宅地図では、ここは直交して、道路と踏み切りがクロスしています。
渡り初め→開通式という時系列なら、新駅の広場でやるのが一番手っ取り早いのではないかと、妄想(笑)しています。
投稿情報: りっこ | 2011/06/27 06:15
開通式の写真の場所は品川区ではなく目蒲線の終点の丸子つまり現在の沼部付近の浅間神社のように思われます。従ってこれは大田区に属するのではないでしょうか。浅間神社から下向きに1形の電車を撮影した写真が回想記に掲載されていた様に記憶しております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/29 00:52