地域歴史研究資料として「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」を購入した(いずれも郷土出版社)。なかなかに興味深い写真が多いが、一冊1万円近い価格はやはり高い。こういうものは、地方自治体の文化事業として刊行すべきものと思うが、多くの地方自治体は企画力がないので仕方がないか。まぁ、それはともかくこの2冊とも、興味深い写真が大きく載っているのはうれしいものである。
だが、しかし。執筆者のレベルが低すぎる。みんながみんなそうではないと思いたいが、せっかくの写真解説に悪意はないのだろうが、結果的にウソが多いのは残念。わかる人が見れば、私などよりもはるかに多くの誤りに気づくだろう。ここで、一例として「目で見る品川区の100年」70ページの筒井康郎氏が書いたとされる文を引用しよう。
実業家として有名な渋沢栄一は、仕事場と住まいを分離する「田園都市構想」を抱いていた。その前提となる鉄道の施設で最初に手がけたのが、大正十二年(一九二三)山手線目黒駅から蒲田駅までの目蒲線建設であった。住宅造成地として西小山から洗足(千束)にかけての台地に着目したが、地価がしだいに高くなったため、急きょ、現在の「田園調布」に変更した。三月には目黒─丸子駅(現・沼部駅)間が開通し、関東大震災が起こったが十一月には蒲田まで全線開通となった。
東急大井町線は昭和二年(一九二七)、大井町─大岡山間が通ったのち、同四年に自由が丘まで開通した。
東急池上線は池上本門寺参詣のため、大正十一年、蒲田─池上間が開通。翌十二年五月、雪谷大塚まで延び、さらに昭和二年十月に大崎広小路まで達した。しかし、ここから目黒川を渡る高架の工事が当時は難工事で、白木屋デパート五反田支店三階の五反田駅と結ばれたのは、同三年六月のことであった。
鉄道院、鉄道省当時の駅は、大井町駅(大正三年)・大崎駅(明治三十四年)・五反田駅(同四十四年)・目黒駅(同十八年)があった。これに加え、大正末期から昭和初期にかけて目蒲線・大井町線・池上線が開通して多くの駅が誕生した。京浜急行は明治二十四年に川崎から南馬場、大正十四年に品川駅と結び、便宜のよい交通機関となった。
(以下略)
目を覆いたくなる誤りの多さ。以下に列挙していこう。
「最初に手がけたのが、大正十二年(一九二三)山手線目黒駅から蒲田駅までの目蒲線建設」←事実錯誤
田園都市株式会社の地方鉄道免許が「大井町~旭野(田園調布付近)」だったというのはさておいて、文脈から目蒲線建設のことを言うなら大正十二年ではなく大正十一年とするのが適切。開通は大正12年3月だが、工事着工並びに主要工事は大正11年中に施工されている。
「住宅造成地として西小山から洗足(千束)」←表現不適当
洗足田園都市は、西小山からというのはあたらない。最寄り駅からとったつもりだろうが、洗足田園都市のエリアを考慮に入れれば西小山というよりは旗の台から洗足といった方が適切だ。おそらく著者は、洗足田園都市エリアを理解していないものと推察される。(とある文献の丸写し説を私は採るが。)
「東急大井町線は昭和二年(一九二七)、大井町─大岡山間が通ったのち、同四年に自由が丘まで開通した。」←事実誤認
現在の東急大井町線は、大井線と二子玉川線がそれぞれ一体的な運用をする想定で計画変更していく過程で誕生した。このため、開業順序として最初に大井町~大岡山、二番目に自由ヶ丘~二子玉川、三番目に大岡山~自由ヶ丘となっている。つまり、大井町から始まる(繋がる)という品川区視点で見ても、同四年に自由が丘(当時の名は自由ヶ丘)まで開通したとはならず、二子玉川まで開通したと書くのが正しい。
「翌十二年五月、雪谷大塚まで延び、さらに昭和二年十月に大崎広小路まで達した。」←誤り
現行駅名で表記するにしても雪谷大塚ではなく雪が谷大塚が正しいが、ここでは雪ヶ谷が適切。理由は雪が谷大塚駅は、雪ヶ谷駅と調布大塚駅が合併した十数年後に雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改名した経緯があり、当時の路線延伸を指すのであれば雪谷大塚(雪が谷大塚)とするのは不適当。また、途中を端折っただけとは思うが、昭和二年八月に桐ヶ谷まで達し、同年十月に大崎広小路までさらに延伸された事実を記してほしかった。
「ここから目黒川を渡る高架の工事が当時は難工事」←誤り
確かに大崎広小路~五反田間は難工事であったが、それは目黒川を渡る橋梁ではなく、それよりも手前の住宅密集地を縫うように施工した箇所(橋梁)である。高架部分を電車が走る騒音軽減のため、様々な手を駆使する様子が鉄道省に提出された文書からもそのことを読み取ることができる。
「白木屋デパート五反田支店三階の五反田駅と結ばれたのは、同三年六月のことであった。」←表現不適当
白木屋五反田店(細かいが「支店」ではない)は、昭和3年12月に開業。よって不適当。また、当ビルは当初は2階建てであり、池上電気鉄道が五反田から先(白金方面)への延伸を諦めたことによって2階より上が増築された(線路を行き止まりとした)。つまり、年代順などをまったく無視した記述だと指摘できる。
「京浜急行は明治二十四年に川崎から南馬場、大正十四年に品川駅と結び」←救われないほど致命的誤り
何を参考にしたのか(あるいは錯誤?)わからないが、南馬場とはまた中途半端な…(呆)。京浜電気鉄道は、川崎方面から品川方向に路線を延伸開業するが、南馬場駅まで中途開業した事実はない。大森停車場前(途中の八幡との間から分岐して)から八ッ山(品川、現 北品川駅)までは一気に開業しており、南馬場は途中駅でしかないはずだが…。また、明治二十四年は誤植かなとも考えたが、明治三十四年とか明治四十二年とかに目立ったものはなく、どこから明治二十四年が出てきたのか不明。なお、京浜電気鉄道の先祖となる大師電気鉄道は明治31年に設立されているので、明治24年では影も形も存在しない。
以上、細かすぎると思われるかもしれないが、郷土の歴史というものは一人一人が体験として記憶しているものであり、こういった低レベルの誤りは致命傷だと考える。加えて、数が多すぎる。私が気づいたのは、ここ2~3年で知識を蓄積している池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄がらみのものが中心だが、その視点だけでこの状態。お詳しい方がご覧になったのなら…。
2011年6月29日追記
本記事コメント欄にお寄せいただいたコメントから「「目で見る品川区の100年」掲載の池上電鉄目黒川橋梁写真を疑う」という記事を作成しました。
目蒲線は工事中に関東大震災に見舞われたがさしたる道床の崩落もなく五島慶太の叱咤激励で工事を完成させたとあります。既に洗足田園都市では一部の住宅が完成しておりましたが、良好な地盤のせいかさしたる損壊もなかったので田園都市の名声を高めたと聞いております。
西小山はずっとあとに出来た駅で事実誤認も甚だしいものと言えます。
京浜急行に至っては開いた口が塞がりません。駅の名前ですが参謀本部の地図では大きな駅のみ記載されておりバス停のような停留場の名前は記されていませんでした。当時は市電と同様に切符は鞄をぶらさげた車掌が販売していましたので、出札改札の施設が無いのも当然でしょう。
ある程度公文書的性格がある本ですので歴史的な検証を厳格に行って頂きたかったものですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/22 09:42
えーーー!
もう入手なさったのですか!!
うーん (ーー;)
私、5月に予約するも、いまだに書店から何の連絡すらないです。
何だかがっくりしてしまいましたよ。そっかー。。もう発売されてんですかぁ……
投稿情報: りっこ | 2011/06/22 17:49
ようやく「品川区の100年」入手いたしました。
で、気になったところが地元的にまず2ヵ所。
73ページ
池上線開通式典
「8月28日だった。地元の旗の台では、この開通を喜んで式典が行われた。」
実は、我が家にこの「式典」の写真があります。広場のようなところでやっています。
「開会式次第」が見えます。最後、万歳三唱で閉会の辞となっています。
ですが、これは「旗の台」なんでしょうかねぇ。
旗の台という駅、ありませんし。
資料の提供は、旗の台の町会かもしれませんが、当時あった池上線の駅は、旗ヶ岡。旗の台という表記には、違和感を覚えます。
同ページの下。
「池上線開通の記念写真」(昭和2年)
「写真は旗の台の通称「どんどん橋」辺りで」
どんどん橋でしょうか…………?
地形的に、もしかしたら、幻の跨線橋の方かも。それとも、後ろに橋げたの脚のようなものが見えるのが、こちらが幻の跨線橋なのかな。
この写真は嬉しかったです。ただどうも、木造ではなく、初めから鉄筋みたいですね。父の記憶は残念ながら違っていたのかな。ではどこから「どんどん橋」の名があったのかなぁ。
投稿情報: りっこ | 2011/06/24 16:39
記事ばかりでなく写真の誤りが発見されました。
このページの上から二枚目の白黒写真です。「人口急増と交通網の発達」と題したページの
橋梁の写真が池上線目黒川の橋の写真とされていますが、これは目蒲線の目黒川に架かる橋梁の写真です。
池上線の目黒川に架かる橋梁は川の中に橋脚はありません。ご確認下さい。
投稿情報: prez | 2011/06/29 00:49
頁60の大岡山駅の風景は以前にブログで取り上げられた等価交換前の北口の東側に東工大が在った頃のものと思われますが如何でしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/29 11:09