当blogでは、地域歴史研究と称して、かなり重箱の隅をつつくような議論を展開することが多いが、今回もかなり人を選ぶものとなる。ただ、当該地域にお住まい、あるいは関係する方々にとっては興味深い内容となるよう心がけているつもりである。そんなわけで、今回ターゲットとするのは現在の東京都品川区の一地域となっている大井地区、かつての東京府荏原郡大井町である。大井町、といえば全国的に同じ名前の地域が多いが、JR東日本の京浜東北線の大井町駅の存在によって、今でも当時の町名(自治体名)が保存されている珍しい例としても興味深いものがある。
さて、この大井町。昭和7年(1932年)10月1日をもって、当時の東京府東京市に合併されることとなって、東京市品川区の一部を構成することとなったのだが、大井町が町制施行する前の大井村の歴史は古く、明治22年(1889年)の市制町村制施行時の町村大規模合併の対象とならず、単独村で一村を構成したことからわかるように、大井町(村)としての一体性は、他村と比べても強いものがあったようである。そのためか、大井町が東京市品川区となる際に選定した新町名は、従来の字名を何らかの形で残すような配慮が見られる。以下に一覧表で、それを示そう。
大井地区の新町名命名ルールは、従来の字名に「大井」を冠称し、最後に「町」を付すことが確認できるだろう。●は、純粋にそのルールを踏襲したもの、▲は、字名を一部省略などしているがルールを踏襲したもの、×は字名を踏襲しなかったもの、と区分けすると、全25町のうち完全に踏襲しなかったものは、わずかに3町のみでしかない。実に8割以上が継承されているということは、字名を残そうという配慮が働いていることにほかならない。
だが一方で、継承されていないものがある点にも注目すべきものがある。逆になぜ継承されなかったという方が興味深いと言うべきだが、これらを一つずつ確認してみよう。
最初は、御林町が大井鮫洲町となった例である。鮫洲、といえばかつては品川ナンバーの陸運局の元締めがある場所として、運転免許証の更新場所として名高いが、鮫洲自体の名称は江戸期以前よりあったもので、けっして新しい地名ではない。もちろん、京浜電気鉄道(現 京急電鉄)の鮫洲駅の存在もあっただろうが、御林町というこれも江戸期以来の名称であったものの、これを捨てて通りのいい鮫洲を採用したとなるだろうか。むしろ、明治初期の地租改正時に字名として鮫洲が採用されなかった理由を考えた方がいいかもしれない(今回は検討しない)。
続いては、水神ノ下(飛地)と一本松を合わせた地が大井鈴ヶ森町となった例である。これも鮫洲と同じく鈴ヶ森も古い地名であり、江戸期には刑場もあって、東海道の鈴ヶ森と言えばこのあたりでの全国的な知名度は最上級だったに違いない。ではなぜ地租改正時に鈴ヶ森が採用されなかったかとなれば、やはり刑場のあった地名を喜んで採用しようとはならなかったかもしれない。いずれにしても、これも鮫洲同様に正式名称として復活した事例となるだろう。
最後に、谷垂及び篠谷が大井伊藤町となった例である。伊藤とは明治の元勲の一人、伊藤博文に由来し、当地(谷垂)に墓ができたことで、これに由来しようとなったと思われる。なお、直前の案では大井伊藤町はなく、字毎に大井谷垂町及び大井篠谷町となっていた。昭和7年(1932年)は、伊藤博文が暗殺されて20年以上経ていたが、まだまだ伊藤公の存在の大きさを地元は持っていたのだろう。
以上、字名が継承されなかった3町のうち、特異なものは大井伊藤町となるだろうか。ちなみに、大井伊藤町が誕生してからは、この名に因んで伊藤小学校、伊藤中学校、伊藤保育園と学校関連施設にまで命名されている(ゼンリンの電子地図で伊藤博文墓所を示すとここ)。
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というわけで、一部に字名を継承しないものはあったが、ほとんど継承した大井町(品川区)の配慮も、戦後の住居表示制度による無味乾燥な町名(東大井、南大井、西大井、大井)によって、すべて消え去った。一部の公共施設等に名を残すものもあるが、今や風前の灯火だろう。そんなことを思いつつ、今回はここまで。
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