前回(その7)は、調布線(奥沢線、新奥沢線)免許申請から国分寺線追願を経て認可申請に至るまでの疑義4つのうち、2つについて検討した。今回は残る2つについて検討していこう。
では、3つめの疑問。「「調布大塚駅~田園調布駅間」及び「田園調布駅~国分寺駅間」の免許申請が許認可されなかった理由は何か」、について考察していこう。
「調布大塚駅~田園調布駅間」については目黒蒲田電鉄が強硬に反対をしており、続く延長線となる「田園調布駅~国分寺駅間」も池上電気鉄道の思惑を見抜いていたこともあって、田園調布駅への接続を頑なに拒否していた。こんなショートカット計画を認めてしまえば、鉄道事業者は共倒れになること必至であり、他社に困難な部分を建設させて完成した暁にショートカット路線を作って旨味を占めることになるのは、鉄道事業としてやってはならないことであると目黒蒲田電鉄の主張はもちろん、鉄道省内でも計画の見直しについて諮られていたようである(国立公文書館資料による)。
これまでの議論でもふれてきたが、当事者(社)の目黒蒲田電鉄の反対はもちろん、鉄道省内の意見調整も必要な状況は、いかに大義名分があったとしても池上電気鉄道の「真の狙い」が見え隠れする中では、そのまま申請どおりに免許を与えることは、さすがの小川平吉大臣でもできなかったと言うことだろう。
ここでこれに続く疑問、「「調布大塚駅~田園調布駅間」を「雪ヶ谷駅~奥沢地区内」に設計変更を約すまでに至った経緯はいかなるものだったのか」についても併せて見ていこう。注目は、接続駅を田園調布駅から奥沢方面にしたことで、しかも奥沢駅と明言していない点にある。そして分岐点も、せっかく新設した調布大塚駅との接続を諦め、雪ヶ谷駅とした。要は、調布線計画は起終点を若干だがどちらも移動し、雪ヶ谷駅~奥沢方面となったことで調布線から奥沢線へと、路線の性格も大きく変えざるを得ない状況に追い込まれたのである。
地元荏原郡調布村からの要請を受けたとして免許申請した調布線は、ことここに至り、その性格を一変したのである。しかもこのような大きな変更が、免許変更申請にかかわる文書で行われず、単なる御請書という形で行われたことにも違和感を覚える。なぜなら、鉄道免許は「調布大塚駅~田園調布駅間」及び「田園調布駅~国分寺駅間」で許認可されたのに、この御請書の密約的なもので、「雪ヶ谷駅~奥沢地区内」に変えて施工する(このことは言うまでもなく「田園調布駅~国分寺駅間」から「奥沢地区内~国分寺駅」への変更も意味する)というのだからただ事ではない。
免許変更申請を経ず、御請書での決着を図ろうとした理由でまず考えられるのは、時間的制約である。最初の免許申請は昭和2年(1927年)3月10日、続く国分寺駅までの免許申請は同年6月4日、そして御請書が同年12月10日。つまり、約9か月経っても許認可の目処が立たず、目黒蒲田電鉄の二子玉川線計画(当初、奥沢駅~瀬田河原。のちに大岡山駅~瀬田河原=二子玉川駅)との兼ね合いもあって、池上電気鉄道は早急な許認可を求めていたと考えられる。よって、これ以上、目黒蒲田電鉄等が強硬に反対する田園調布駅接続を諦め、6月4日申請の国分寺線(田園調布駅~国分寺駅)を活かすことや、荏原郡玉川村大字等々力字諏訪分地域から鉄道用地の提供を考慮に入れて、奥沢地域(奥沢部落)への変更を社内的に決定した。しかし、ここで免許申請を取り下げて再申請となると手続き上さらなる時間を要することから、鉄道省と密約(御請書)し、必ず工事施行認可申請においては「雪ヶ谷駅~奥沢地域」へと変更すると約したのである(いわゆる一筆書いた)。目黒蒲田電鉄は田園調布駅の接続を阻止したことで、鉄道省への要請もかわせるだろうと判断したかまでは定かでないが、鉄道省は池上電気鉄道の御請書を受けて、昭和2年(1927年)12月16日、二つの鉄道免許申請に対する許認可を行った。
池上電気鉄道としては、当初の目的である田園調布駅接続を諦める代わりに、ここで大義名分として追願した国分寺線(田園調布駅→奥沢地域~国分寺駅)を活かすため、目黒蒲田電鉄が計画する二子玉川線(大井町線)に先んじて建設計画を推し進めるという形を採り、ために急いで許認可されなければならない状況だった、と考えるのである。
他に考えられる理由としては──、残念ながら今のところは私には思いつかない。既に目黒蒲田電鉄二子玉川線の計画は、大正13年(1924年)7月にはなされており、分岐駅について奥沢駅から大岡山駅に変更することで地元と揉めるなどして時間を要していたが、東京横浜電鉄が昭和2年(1927年)8月に渋谷駅~田園調布駅間を開業したことから、池上電気鉄道に残された時間はほとんどなかったと思われる。
この頃、目黒蒲田電鉄は奥沢駅周辺地主と二つの問題で揉めていた。一つは先にふれたように二子線の分岐駅を奥沢駅から大岡山駅に変更する案件、もう一つは東京横浜電鉄線と目黒蒲田電鉄線との交叉地点(乗り換え駅)異動に関する案件(これはのちに大井町線の大岡山駅~自由ヶ丘駅間(現在の緑が丘駅~自由が丘駅間)の路線をどう敷設するかという案件に変質)である。
では、目黒蒲田電鉄二子玉川線計画と池上電気鉄道調布線・国分寺線計画が、どのように絡み合っているかを確認するため、玉川全円耕地整理組合の動きも含めた年表形式で確認してみよう。
- 大正12年(1923年)3月11日、目黒蒲田電鉄、目黒線(目黒駅~丸子駅間)開業。荏原郡玉川村内に初めて高速鉄道が開通し、村内に奥沢駅が開業。
- 大正12年(1923年)5月4日、池上電気鉄道、池上駅~雪ヶ谷駅間、延伸開業。
- 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災。
- 大正13年(1924年)7月24日、目黒蒲田電鉄、奥沢駅~瀬田河原(二子玉川)間、鉄道敷設免許申請。
- 大正13年(1924年)11月20日、玉川全円耕地整理組合(の前身)、組合設立認可申請。
- 大正14年(1925年)11月20日、玉川全円耕地整理組合(の前身)、組合設立認可。
- 大正15年(1926年)2月14日、東京横浜電鉄、神奈川線(丸子多摩川駅~神奈川駅間)開業。
- 大正15年(1926年)3月7日、玉川小学校にて創立総会開催。玉川全円耕地整理組合発足。
- 昭和2年(1927年)3月10日、池上電気鉄道、調布線免許申請。
- 昭和2年(1927年)6月4日、池上電気鉄道、国分寺線免許申請。
- 昭和2年(1927年)6月29日、玉川全円耕地整理組合、組合長、組合副長選任認可。
- 昭和2年(1927年)8月19日、池上電気鉄道、調布大塚駅を開業。
- 昭和2年(1927年)8月28日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅間を延伸開業。
- 昭和2年(1927年)8月28日、東京横浜電鉄、渋谷線(渋谷駅~丸子多摩川駅間)開業。
- 昭和2年(1927年)10月9日、池上電気鉄道、桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間を延伸開業。
- 昭和2年(1927年)10月19日、玉川全円耕地整理組合、第一回評議会開催。
- 昭和2年(1927年)10月25日、諏訪分区役員選挙実施。
- 昭和2年(1927年)12月10日、池上電気鉄道、鉄道省に「御請書」を提出。
- 昭和2年(1927年)12月16日、池上電気鉄道、調布線(調布大塚駅~田園調布駅間)及び国分寺線(田園調布駅~国分寺駅間)の免許認可。
- 昭和2年(1927年)12月27日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線(奥沢駅~瀬田河原間)の免許認可。
もうちょっとうまく分類した方がいいとか、あるいは関連事項をもっと絞った方がいいということは百も承知で、目黒蒲田電鉄最初の開業から二子玉川線許認可までの約4年半ほどの間(たったそれだけの期間)に起こった関連する事項を年表形式で列挙したが、これで目黒蒲田電鉄大井町線(二子玉川線)と池上電気鉄道調布線・国分寺線(奥沢線、新奥沢線)の関係が見えてくるだろう。計画そのものは二子玉川線の方が早かったが、荏原郡玉川村の全円耕地整理組合設立にまつわるどたばたで大正年間はほとんど進捗せず、その間に東京横浜電鉄線との兼ね合いから、接続駅の変更、東横線との交叉箇所、乗り換え駅の設置、大井町線との直通運転など、多くの変更要因を抱え込んだことから、後発の池上電気鉄道の計画に追い抜かれたことがわかる。
このあたりの事情を「東京急行電鉄50年史」では、122ページに、
鉄道省は、こうした各社の申請に対し、成業の可能性について調査した結果、目蒲線の成業と大井町線の建設で実績を残した目黒蒲田電鉄の出願路線を認可することが、同地方の開発に資するところ大であるとして、昭和2年12月27日、目黒蒲田電鉄申請の奥沢~瀬田河原間を免許した。
と説明しているが、先行して免許された池上電気鉄道の国分寺線についてはふれていない。本文直後に一部開業した事実をふれているものの、「目蒲線の成業と大井町線の建設で実績を残した目黒蒲田電鉄の出願路線を認可することが、同地方の開発に資するところ大であるとして」とは、いささか社史とは言えいかがなものかと思うが、社史とはそういう視点で見なければならないという一例として見れば好例であるだろう。
また、巷間の文献には、田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)と玉川全円耕地整理組合との関係は良好なように記されているものがほとんどだが、個別に見る限りにおいてはけっしてそうではなかったように思う。そもそも、玉川全円耕地整理組合が全円で施行(施工)できなかった理由は、各地域で耕地整理に関する利害が大きく食い違っているからであって、組合設立時においても賛成派と反対派の対立は激烈で、双方の代表者・有力者には今でいうボディガードを付けたほどだというので、その対立は根深いものがある(だからこそ、組合設立認可申請から認可までちょうど一年も要した)。結果、工区毎に17の地域にわけ、独立会計という異例な対応を採り、工区の中には耕地整理できずじまいのところが出たのも当然の帰結と言える。また、玉川村村長であり、玉川全円耕地整理組合長でもあった豊田正治氏も一筋縄ではいかない御仁であり、既に田園都市株式会社が買収済みだった玉川村内の土地(大字奥沢字五斗免など)に対しても「全円」の中に組み込んでしまい、全円各工区の道路パターンを踏襲させた。今日の世田谷区内の田園都市株式会社分譲地が、大田区内に見られるエトワール式道路パターンでなく、単なる格子状の道路パターンとなってしまっているのはこのためである。そして、整地のし直しのみならず、住宅地としての分譲計画まで大きく遅れさせることとなったのだった(土地の売買は耕地整理組合の許可が必要なため)。
つまり、玉川全円耕地整理組合は一枚岩でもなければ、組合長ともけっして蜜月関係というわけではなく、是々非々での関係だったとなるだろう。要は、池上電気鉄道というライバルが現れたことで、目黒蒲田電鉄(田園都市株式会社)としても玉川村や全円耕地整理組合に大いに譲歩せざるを得ない状況を生み出していたと考えるのだ。
では、ここまで議論を進めてきて、3つ目の疑問である「「調布大塚駅~田園調布駅間」及び「田園調布駅~国分寺駅間」の免許申請が許認可されなかった理由は何か」と「「調布大塚駅~田園調布駅間」を「雪ヶ谷駅~奥沢地区内」に設計変更を約すまでに至った経緯はいかなるものだったのか」についてまとめよう。
目黒蒲田電鉄は、池上電気鉄道の田園調布駅(交通結節点かつ最大規模の田園都市)接続を断固として反対していたことがすべてであり、池上電気鉄道としてはこれ以上時間を弄するよりは「瓢箪から駒」というべき国分寺線計画を活かすべく、先行する目黒蒲田電鉄の二子玉川線計画に先んじる必要から、田園調布駅接続を諦めて国分寺線計画を推進する方向へ大きく舵を切った。この裏書きとして、玉川全円耕地整理組合が工区制を採用し、その一つである諏訪分区との鉄道用地買収話があったからと見る。目黒蒲田電鉄は玉川全円耕地整理組合(組合長)とは話がうまくいっていたかもしれないが、一枚岩ではない工区単位での交渉となれば十分に切り崩し可能であり、現実に諏訪分区でこれが実現するとその危機感を非常に強めたのではないかと思われる。つまり、池上電気鉄道の「変節」は、実現困難な田園調布駅の接続よりも荏原郡玉川村への侵出をはかり、積年の対立の頂点としてここに目黒蒲田電鉄との決着をつけようとしたためと考えるのである。
一方、目黒蒲田電鉄二子玉川線免許も調布線・国分寺線に遅れること、わずかに11日で許認可された。昭和2年(1927年)の年の瀬に両社に免許がおり、来年からいよいよ両社の対決が荏原郡玉川村を舞台にして展開していくと思われた──が、しかし。現実は思いがけない方向に展開していく。以下、次回(その9)へ続く。
XWIN II様
いつもながら徹底した調査には感服しております。玉川村の耕地整理組合に関してですが奥沢駅の南側に一本放射状の道路が格子状の道路網の中に突き抜けているのに違和感を感じましたが組合と電鉄との対立が関係しているのでしょうか? 一部に鋭角の三角形の敷地があり何か不自然な感じがします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/21 12:13
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
>奥沢駅の南側に一本放射状の道路が格子状の道路網の中に突き抜けているのに違和感を感じましたが組合と電鉄との対立が関係しているのでしょうか?
↑
未調査故、適当な想像でコメントすることをご容赦ください。とお断りをして理由を想像するに、一つは奥沢駅までの短絡道確保のため。格子状道路パターンは、どうしても駅までの経路に回り道となるところが出てきます。これを解消する狙いが一つ。そしてもう一つは、地形的にこの道路と平行して周囲から下水を集約させる目的があったのではと考えます。当時は、暗渠でなく開渠だったので、道路と平行して下水が配置されるのは当然かと思います。(場所はここ。http://www.its-mo.com/z-128153404-502843620-17.htm)
投稿情報: XWIN II | 2010/08/22 08:28
XWIN II様
コメント有り難う御座います。あらためて等高線のある地図を見ると呑河に向けて下り斜面になっていますので効率的な排水ができることが分かります。大田区でも殆ど暗渠化されたのはそんなに昔ではありません。
次回のトピックを心待ちしています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/22 09:07