前回(その8)までで、ようやく池上電鉄奥沢線(新奥沢線)の免許取得、即ち許認可まで論を進めた。なお、本論では池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の二社を対立軸としているので、それ以外の鉄道会社にはほとんどふれていないが、一応、許認可までで一区切り付けたので、ここで対立軸の二社以外で影響を及ぼしたと考えられるプレイヤーを三社ほど取り上げておく。その三社とは、
- 京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)
- 東京山手急行電鉄
- 目黒玉川電気鉄道
で、いずれも池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の二社が争う地に割り込む形で、鉄道敷設免許を取得した鉄道会社であった。まず、最初に京浜電気鉄道について見ていこう。
京浜電気鉄道は、関東地方で最古の部類に属する私営鉄道企業で、当初は大師電気鉄道と名乗り、川崎大師までの参詣客運輸を主目的として誕生した。その後、東京(品川)~横浜(神奈川)間に東海道上あるいはほぼ平行する形で路線を伸ばし、京浜電気鉄道と名乗るに至る。さらに、支線として穴守線(穴守稲荷までの参詣客輸送)、大森線(当初、品川方面に延伸する前までは大森が終点で、途中から支線扱いとなる。最初本線扱いだった大師線と同様)、官線から東側の京浜間エリアを営業テリトリーとしていた。以上の経緯からわかるように、京浜電気鉄道は参詣客輸送をメインとしており、明治末期には池上本門寺までのルートも特許申請を行っていたがこれは却下されていた。代わりに特許を得たのは、池上電気鉄道(の発起人)に対してだったのである。
このことから、京浜電気鉄道は池上電気鉄道の大森~目黒間と接続することを企図し、大森~池上間はなかなか進捗はしなかったが(結果的に完成できなかった)、両社の関係は悪いものでなかった。その後、目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄連合の登場で、東京(渋谷)~横浜間の競合が生まれると、敵の敵は味方という論法も手伝い、池上電気鉄道と京浜電気鉄道の関係は良好であった。
だが、大正14年(1925年)末に池上電気鉄道の高柳体制が倒れ、それに続く混乱から池上電気鉄道そのものの存在が危ぶまれ、大森~池上間の計画も進捗しないことから、京浜電気鉄道は大きな決断を行う。それが、蒲田~五反田間の新線建設を企図した鉄道敷設免許申請である。時に大正15年(1926年)5月8日のことであった。この申請の目的は、多くの私鉄各社が画策していた東京市内乗り入れである。京浜電気鉄道は品川(高輪)までの延伸は確保できていたが、市内乗り入れという点では不満であり、そこから先も東京市電という路面電車(もともと京浜電気鉄道も路面電車的なものであったが、京浜間の産業発展によって通勤電車に性格を変えつつあった)では輸送力という点で問題があり、五反田駅から先は地下鉄に乗り入れるという策を講じたのである。
ただ、疑問なのは東京の地下鉄計画の嚆矢ともいえる浅草~高輪間の路線は、当時浅草~上野間を工事施工中だった東京地下鉄道の免許路線であり、昭和10年代初期には実際に京浜地下鉄道の設立もあるなど、品川経由で直通させるのが京浜電気鉄道にとってベストルートのはず。なのに、なぜわざわざ新線を作ってまで五反田までの計画を申請したのかは検討の余地がある。このあたりの事情は、免許申請書を見てもわかるものではないが、一応示しておこう。
地方鉄道免許申請書
東京府荏原郡蒲田町当社線蒲田停留場ヨリ同郡大崎町省線五反田駅ニ至ル線路ヲ地方鉄道法ニ依リ敷設致度候間御免許被成下度同法第拾弐条ニ依リ関係図書相添ヘ此段申請仕候也
大正拾五年五月八日
神奈川県川崎市堀川町弐拾五番地
京浜電気鉄道株式会社
取締役社長 青木 正太郎鉄道大臣 仙石 貢 殿
この申請書に添付された起業目論見書は、以下のとおり。
起業目論見書
一、目的
地方鉄道法ニ依リ電気鉄道ヲ敷設シ一般乗客ヲ取扱フモノトス二、商号又ハ名称及主タル事務所ノ設置地
名称 京浜電気鉄道株式会社
主タル事務所ノ設置地 神奈川県川崎市堀川町弐拾五番地三、鉄道事業ニ要スル資金ノ総額及出資方法
資金ノ総額 金四百万円
出資ノ方法 株式四、線路ノ起終点及其経過スヘキ主ナル市町村名
東京府荏原郡蒲田町新宿 番地京浜電気鉄道株式会社蒲田停留場ヲ起点トシ蒲田町、池上村、馬込村、大井町、平塚村ヲ経テ同郡大崎町(省線五反田駅付近)ヲ終点トス此延長四哩六拾参鎖ナリ五、軌間 四尺八寸二分ノ一
六、動力 動力ハ電気トシ東京電力株式会社ヨリ供給ヲ受クルモノトス
まぁ、なぜ申請したのかの理由は当然ながら無い。なお、起点の説明にある番地が空欄なのは、私の転記ミスではなく、もとから空欄だった。書き漏れなのか、書く必要を成さなかったのかは不明である。で、蒲田~五反田間というと、お気付きのように池上電気鉄道が目指す鉄道建設と同じ起終点に見えるが、実際は蒲田は蒲田でも省線蒲田駅から1km近く離れた京 浜蒲田(現、京急蒲田)である。しかし、大きく湾曲する路線ではなく、ほぼ直線ルートで五反田駅まで乗り入れるため、所要時間は半分と目されたことから、 池上電気鉄道は生命線を斬られるほどの一大事であった。この申請は、完全に競合路線であるのでなかなか免許されなかったが、ついに小川平吉鉄道大臣の時代に免許される。
監第一四四六号
免許状
京浜電気鉄道株式会社
右申請ニ係ル東京府荏原郡蒲田町ヨリ同府同郡大崎町ニ至ル鉄道ヲ敷設シ旅客ノ運輸営業ヲ為スコトヲ免許ス但シ左記条件ヲ附ス
昭和三年五月十九日
鉄道大臣 小川平吉
一、地方鉄道法第十三条ニ依ル認可申請ハ昭和四年五月十八日迄ニ之ヲ為スヘシ
一、本鉄道開通後東京地下鉄道株式会社ニ於テ同社所属線路工事中ノ採掘土砂等運搬ノ為、並同鉄道所属車輌ノ車庫出入ノ為線路共用ヲ申出テタルトキハ営業上支障ナキ限リ之ヲ拒ムコトヲ得ス
右ニ付協議調ハサルトキハ政府之ヲ裁定ス
もとは縦書き文書なので、右とあるのは上行、左記とあるのは下記を意味する。こうして、決定的に両社の仲は裂かれ敵対関係になってしまい、池上電気鉄道自身も自らのショートカット路線となる池上駅~荏原中延駅間の免許申請を行う羽目となる(この路線は、目黒蒲田電鉄の申請した武蔵新田駅~荏原町駅間への対抗の意味もある)。この結果、鉄道とほとんど無縁だった荏原郡馬込村(町)は、一気に鉄道錯綜地帯になるかと思われたが、最終的にはどちらも開業することなく終わる。しかも、省線品鶴貨物線もせっかく駅用地まで確保しておきながら、これも旅客化後の横須賀線の駅はできず、都営浅草線の馬込駅と西馬込駅にとどまっているのは周知の通りである。
この蒲田~五反田間の計画は、京浜電気鉄道との関係を悪化ならしめたものであるが、池上電気鉄道にとっては白金線(大崎広小路~白金間)建設計画、つまり東京市内乗り入れ計画に暗い影を落とした。池上電気鉄道は五反田から先、品川駅までの接続を目指したが、これには京浜電気鉄道の協力が欠かせないものであった。白金から先は京浜電気鉄道の計画(免許)線を利用することを想定していたが、京浜電気鉄道が東京市内への乗り入れを品川駅経由から五反田駅経由に改めただけでなく、地下鉄線経由としたことは、もはや白金から品川までの延長線を作る価値がないと判断したと見ていいし、両社の関係が悪化すればこれも望むべくもない。よって、池上電気鉄道は白金までで足止めとなり、これは東京市電との接続で満足しなければならないことを意味したのである(東京市電が五反田駅前まで延伸したのは、昭和8年(1933年)11月6日)。
つまり、この白金線の将来性を憂慮した結果が、国分寺線追願の一因とも言えるのではないだろうかと考えるのである。
では、続いて東京山手急行電鉄である。これは、大井町から州崎(現在の東京メトロ東西線の木場駅~東陽町駅付近)までほぼ東京市郊外を環状につなぎ、育ちつつあった郊外私鉄各社の路線を縦横に接続する画期的な計画であった。だが、局所局所で見れば、既存私鉄の競合路線となるのでこれも免許されるかどうかは微妙(つまり保留扱い)であったが、若槻内閣総辞職の日、井上匡四郎鉄道大臣は起死回生(苦笑)となる鉄道免許を認可した。その一つが山手急行電鉄の免許線だったのである。
このような経過で急転直下、免許されたたため、競合する私鉄各社は自社のテリトリーを防衛するため、次々と鉄道免許の申請を行い、これが次内閣の小川平吉鉄道大臣によって次々と免許されるという、免許制を否定するかのような免許大判振る舞いが展開される。東京山手急行電鉄の免許線によって池上電気鉄道が講じた策が、戸越銀座駅~三軒茶屋駅の免許申請だった。これは当該区間において、ほとんど東京山手急行電鉄計画線と同じであり、この申請は却下されるが、この例のように東京山手急行電鉄の計画は私鉄各社に影響を及ぼしたのである。
最後に目黒玉川電気鉄道だが、これも東京山手急行電鉄の免許線と同様、井上匡四郎鉄道大臣によって起死回生の鉄道免許認可を得たものである。その名のとおり、目黒駅から玉川電気鉄道の玉川駅までの路線で、これは目黒蒲田電鉄及び東京横浜電鉄のテリトリーを侵すことになるものだった。しかも、この会社は玉川電気鉄道の系列(姉妹)会社であり、言い換えれば玉川電気鉄道が目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄のテリトリーに侵出を図ったと見られるのは当然だった。
これにより、荏原郡玉川村は、村の西端を玉川電気鉄道の路面電車が用賀~玉川間を通過し、村の東端を目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄がかすめるだけの状況から、いきなり目黒蒲田電鉄の計画線(二子玉川線)に加え、目黒玉川電気鉄道の計画線、池上電気鉄道の計画線(国分寺線)の三線が加わることとなったのである。この状況下で、先行していた目黒蒲田電鉄及び東京横浜電鉄、つまりは五島慶太氏はいかなる対応策を考えたのだろうか。興味深いが、この話をすると大きく横道に逸れていくので、今回は池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の対立軸に影響を与えたであろう三つの計画を紹介する範囲にとどめておく。
以上、三社の計画があったことを確認しつつ、次回(その10)では、昭和3年(1928年)以降、池上電気鉄道調布線・国分寺線計画と目黒蒲田電鉄の二子玉川線計画がどのように進捗し、対立していったのかについて論じていくことにしよう。
東京市電への乗り入れ
小生が小学校へ入学する前は、京浜急行の高輪の終点駅迄八つ山橋から市電と共通のレールを走っていて、古いガードがずいぶん後迄残っていました。京成電鉄、京王電鉄、また天現寺まで伸びていた玉電も乗り入れを視野に入れて市電のゲージに合わせていましたが、京浜急行は湘南電鉄と直通運転を期に標準ゲージに、また京成電鉄も都営地下鉄と直通運転を期に区間を切り乍らでも英断をもって改軌に踏み切り、京王電鉄だけ取り残されました。池上線も桐が谷での乗り入れもゲージの問題で実現されませんでした。中目黒で煮え湯を飲まされた東急もグループとしての売上を犠牲にした上に多額の投資を行わなければならないことに拒否反応を示したと聞いております。昨今の人口減少による売上げ低下に悩む電鉄各社はこれ以上の先行投資は困難でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/25 09:23