前回は思いがけず、短い文でありながらあまりの誤りの多さから、品川区部分について論じているうちに時間がなくなってしまった。今回も引き続き「東京23区の地名の由来」(著者:金子 勤、発行:幻冬舎ルネッサンス)の誤り等を指摘していこう。積み残した目黒区から見ていくこととする。
まずは、本書169ページの三田について。
三田 由来は朝廷の米倉から来ている。三田=御田=屯倉。平安時代の『和名類聚抄』に御田郷とあり、広範囲で現在の目黒区、港区、品川区に及んでいる。現在、三田一~二丁目まである。二丁目に慶応大学三田キャンパス。
おわかりですね。慶應義塾大学三田キャンパスは三田二丁目は三田二丁目でも、目黒区のそれではなく、東京都港区三田二丁目である。目黒区の三田はJR山手線の目黒駅~恵比寿駅間にあり、港区の三田はJR山手線(京浜線)でいえば田町駅が最寄り駅で、どこをどう勘違いすればこのような過ちを犯すのか見当が付かない。絶対に著者は現場などに行っていないだろうし、神奈川県がホームグラウンドであったとしても知らなすぎる。奥付によれば著者は早稲田大学卒とのことなので、よほど慶應義塾大学が気に入らないのだろうかと邪推すらしてしまう、あまりに致命的な誤りだと言えよう。
次は、本書170ページの祐天寺について。
祐天寺 由来は芝の増上寺の第三十六代法主を開基とする浄土宗・祐天寺の名前による。享保七年(一七二二年)、八代将軍吉宗から、明顕山祐天寺の号が与えられた、浄土宗屈指の名刹。現在、祐天寺は一~二丁目まであるが、そこには由来となった寺はなく、隣の中目黒五丁目にある。
祐天寺の説明だが、正確には祐天上人の開基ではなく高弟の祐海上人が創建し、祐海上人が祐天上人を開山と仰いだため、祐天寺の名がある。よって誤り。また、町名の祐天寺は寺である「祐天寺」に由来するのでなく、東急東横線の「祐天寺」駅に由来する。無論、祐天寺駅は最寄り駅として祐天寺に因むので、まったくの誤りではないが「そこには由来となった寺はなく、隣の中目黒五丁目にある」と蛇足を記してしまっている。地名と由来物が一致していないことを主張したかったのだろうが、そんなものはごまんとあるのだ。
続けて、本書171ページの柿の木坂について。
柿の木坂 急坂の途中に柿の木があったので付けられた。特に秋から初冬にかけての柿の木は趣のある風情さで人の足を止める。明治期には衾村の柿木坂下といったが、衾の字と意味が難解のため、柿の木坂が浮上してきた(目黒五十年史)。現在、柿の木坂一~三丁目まである。
もしもし、自然地形説はどうしました? 柿の木坂は坂名に由来はするが、坂の途中に柿の木があったとする通説よりも「カキノキ」と読みから自然地形を出してもよかったのでは? また、目黒五十年史からの引用としている「明治期には衾村の柿木坂下といったが、衾の字と意味が難解のため、柿の木坂が浮上してきた」と意味不明なことをいっている。村名と小字名は違うだろうに、一緒にまとめてどうしようというのだろうか。言葉足らずだけと思いたい。
同じく、本書171ページの洗足について。
洗足 稲たば千束という意味から来ている地名。「足洗い」の洗足は伝説から来ている。伝説は日蓮上人の足洗い説や、キリストの弟子が足を洗った故事から付けられた(洗足学園入学案内)。現在、洗足一~二丁目まである。
由来は洗足池畔(の分譲地)から来ているので千束の説明は妥当だが、続く「足洗い」の説は勇み足。洗足学園の由来を洗足のそれにひっかけているのが著者の無知を露わにしている。
さらに、本書172ページの緑が丘について。
緑が丘 この地が緑の多い丘陵地・畑であることにちなむ。かつては碑衾町大字・谷畑といった。昭和七年、緑が丘となる。その頃は一面の麦畑だったと古老は回想する。現在、緑が丘一~三丁目まである。
誤りの連鎖。緑が丘の説明には「大字谷畑」とある文献が大変多いが、碑衾町(及びその前の碑衾村)に大字谷畑などない。大字は碑文谷と衾の二つしかなく、東京市に合併される直前になって大字衾から大字自由ヶ丘が分離して3大字となったが、大字自由ヶ丘であって大字谷畑ではないのだ。おそらく、衾村時代の4つの地域の一つに「谷畑」があったという話が混同して伝わるうちに、有力な書籍が誤って「大字谷畑」としたのだろう。だが、これ以外にも著者の誤りはあり、昭和七年には「緑が丘」ではなく「緑ヶ丘」が正しく、一面麦畑だったとする話も当時の地形図を確認すればわかるように、半分以上は水田だったのだ。古老の印象を記すのはいいのだが、その適否について是非現地に足を運んで確認していただきたいものである。
同じく、本書172ページの自由が丘について。
自由が丘 由来は、この地にある自由ヶ丘学園という学園名から来ている。昭和二年、東横線開通。現在の自由が丘駅がある地は九品佛といい、九体の阿弥陀如来が安置されている寺だった。九品佛は駅名変えを迫られ、「自由が丘」と改称した。奥沢七丁目にある九品仏浄真寺は寺の正面の方に駅を移動した。現在、自由が丘一~三丁目まである。
著者の錯乱はここでも見られる。由来は自由ヶ丘学園はいいとして、東横線開通もまぁいいだろう。しかし「自由が丘駅がある地は九品佛といい」、とは何だろうか。九品佛は地域名ではなく、自由ヶ丘駅の前駅名というべきだろう。続く「寺だった」…ってところまで読み進めると文法すらおかしく見える。しかも、九品佛が駅名変更を迫られとするが、これは二子線(大井町線)の新駅が九品佛近くにできるのでここに駅名を譲り、九品佛駅からの改名候補だった「衾」駅について駅名変更を迫られたとなる。著者は単に端折って書いたわけではなく、続けて「奥沢七丁目にある九品仏浄真寺は寺の正面の方に駅を移動した」と意味不明なことを書いていることからも何もわかっておらず、でたらめを書いていることが確認できよう。
以上、目黒区の採り上げられている17の地名のうち、6つを採り上げたが、これ以外にもあからさまな嘘ではないが、この記載はいかがなものか?と思うものも加えると半数以上おかしな説明ばかりである。またまた長くなったので、残る大田区についてはまた次回以降としよう。
自由が丘駅
1929年の陸地測量部の碑文谷では大井線は大岡山までで、東京横浜電鉄のしいうがおかと駅名が標記されており大井線の一部が九品仏川を渡る手前迄完成しており、東横線とは立体交差しています。大井町線が完成して九品仏駅ができるまでこの駅が九品仏であったことと矛盾します。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/11 12:21
柿の木坂
「東京23区の地名の由来」の筆者は、古来の地名と、行政がかってに名付けた町名を混同しています。
柿の木坂は、本来、目黒通りにある坂の名前・・地名としては、坂の両側の、ごく狭い地域をさしています。
昭和40年代のデタラメな町名変更により、目黒駅を背にした左側は柿の木坂から外され、右側が、本来の柿の木坂とは縁も縁もない地帯まで広げられています。
地名の由来を語る以上、ここまで踏み込んで記述するべきだと思います。
投稿情報: 石川 | 2020/04/19 14:35
住んでいる場所によって、地名に対する感覚が微妙に変わってくる実例です。
中学で出会った上目黒小学校卒の友人の多くが、「祐天寺」を「ユーテンジオテラ」というのです。
考えてみると、彼らは、「祐天寺駅」の踏切を超えて、「祐天寺」にやってくるのです。彼らの感覚では、自分他意の住んでいる地域が「ユーテンジ」であり、「祐天寺」は「ユーテンジにあるお寺」なんですね。
投稿情報: 石川 | 2020/04/19 14:45
コメントありがとうございます。
この手の本は、安易に作られているものが多く、加えて巨匠(苦笑)とされるような方でも、一発目が当たったので二発目も書いてほしいと書籍編集部員に頼まれ、大した積み上げもないまま書いていることも少なくありません。
私もそうならないように務めてはいますが、そもそも論として東京23区を完全に理解している人などいないと思っています。かつての泉麻人のような方でも。
投稿情報: XWIN II | 2020/04/21 06:47
地名からのハザードリスクを研究している者です。
丁寧かつ的確な解説で、大変参考になりました。
柿の木坂は諸説ありますが、全国の地名では 柿=欠く 土地が崩れて欠ける
が多いので、個人的には 欠ける木の坂 木が欠けて崩れ落ちるほどの坂 が
語源だと思います。
実際、柿の木坂の住宅地に入ると非常に勾配がキツイ坂が随所にありますので。
このようなマイナス由来の地名は年月を経て異なる由来に上書きされていまして、
柿の木坂もその流れかと思っています。
現在は高級住宅街とされていますので、この説を推したい人は誰もいないと思いますが・・
石川様>
仰る通り、柿の木坂の反対は坂が多いのに平町ですよね。
昭和初期の目黒通りの拡幅により行政の都合で歴史が分断され、出鱈目な地名変更が行われた事が伺われます。
投稿情報: 地名ハザード研究家 | 2022/03/23 23:13