「東急池上線 旗の台駅~長原駅間の歩道橋を歩く」という記事で、東急池上線の旗の台駅~長原駅間の跨線橋などを見てきたが、もちろん何となく行ったわけではなく、目的があって行った。その目的とは──
まずは下の地図をご覧いただこう。
昭和4年(1929年)の1万分の1地形図。現在の旗の台駅~長原駅間だが、現在の東急池上線、当時の池上電気鉄道線が開通して約2年。この時代に跨線橋が2つある、というのは別に珍しいことではないが、面白いのは一方の跨線橋が、わざわざ遠回りをして設置されている点にある。そして、もう一方(地図上では左下)の跨線橋は、現在の旗の台一の橋と同じ場所にあるものである。
わざわざ遠回りするような跨線橋は、昭和9年(1934年)の東京市荏原区の地図では見えなくなっている。道路は一直線になり、そこに踏切が設けられているように書かれているが、やはり遠回り、かつ坂を上って下りるような構造は歩行者に不評であって、道路を切り下げるなどして道路と線路の高さを合わせたのだろう。実際、現地に行ってみれば、この踏切付近は周囲(特に西側)の土地が高くなっていることが確認できる。
池上線建設当時は、この北側下りの急斜面を線路部分の土地を少しずつ切り下げるなどして、傾斜を少しでも緩めようとした結果がこの遠回りの跨線橋(上写真でいえば、左側に見える大きな建物=区立旗の台文化センターから右側に見える大きな木のある辺りにあった)となったのだろうが、周辺が住宅地となっていくにしたがってすぐにこのようになったと思われる。
そして、もう一方の跨線橋は今も昔もこの場所にあり、昭和43年(1968年)に掛け替えられたという流れになる。その痕跡が多少でもあるかと思って散策したのだが、結果は確認できず仕舞い。単なる街歩きとなってしまったのであった。といったところで、今回はここまで。
今年90歳になる伯母と、11日に会います。昭和20年まで旗の台に住んでいました。父よりは記憶力がまだあるので、聞いてみたいと思います。
私の記憶ですが、昭和30年代には、この橋は、あったと思うのですが……
投稿情報: りっこ | 2010/06/08 08:32
上の図の東側の陸橋は記憶にありませんが、長原側の陸橋は歩道橋のような両袖に1/2メートルの階段があって競り上がっていました。当時の環七は平面交差でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/08 10:15
よかった!私の記憶が合っていたようです。
旗の台一の橋は「ドンドン橋」が通称です。
>>池上線跨線橋「ドンドン橋」の安全対策と落下防止の改修(旗の台5)
【本コメントは、私 XWIN IIの方で誠に勝手ながら一部削除してあります。りっこ様には恐縮ですが、理由は察して下さいませ。】
投稿情報: りっこ | 2010/06/08 20:14
ご説の通り多分33.33パーミルの急勾配でした。等高線を見てもそれが実感できます。東側の現在踏切になっている所の北側が高台の空き地になっていましたがその理由が分かったような気がします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/08 22:12
旗の台文化センターを右手に見て、踏切を渡っていく道、というのは、私の中学校時代の通学路でした。
昭和前期 日本商工地図集成(昭和8年)の地図で、ここのところの道が、山形になっているのが、ずっと不思議でしたが、今回その疑問が氷解いたしました。
本当にありがとうございます。
投稿情報: りっこ | 2010/06/09 06:43
思い出したことがあります。何遍もすみません m(_ _)m
旗の台文化センターを右手に見て、旗の台2号踏切を渡ります。渡ってすぐ右手にアパートが見えて、そこと駐車場との間に、階段の道があります。その道を右折すると、すぐに道はまた右折となり、そして池上線の線路の手前で、切れてしまいます。
ここの道、不思議に思っておりました。が、これがおっしゃっておられる跨線橋のあった道なのではないでしょうか。
この道はなぜこんな形状なのだろうと、かねがね思っていたので、今回のご説明で、非常に納得できました。
投稿情報: りっこ | 2010/06/09 18:23
りっこ様、コメントありがとうございます。
>ここの道、不思議に思っておりました。が、これがおっしゃっておられる跨線橋のあった道なのではないでしょうか。
↑
一番奥まったところ(線路に最も近い大きな木のあるところ)がかつて跨線橋のあったところですが、公道から入り込むところは異なります。単に、大きな敷地を分割するための私道かと思います。
投稿情報: XWIN II | 2010/06/10 06:51
本日改めて運転台から両側に階段のある太鼓橋が昔の姿で残っていることを発見して小生の不見識を深く恥じる次第です。立体化工事の時に下を削って橋を平らにしたものと思い込んでいたのが間違いの元でした。現実はそのまま上り坂を残して環七の手前で逆に下り勾配になっています。工事費の関係もあったのかもしれません。手前の踏切の北側の台地が空き地になっており子供の頃によく遊んだものですが、そのときパンタグラフが屋根に付きそうになるまで押し下げられていた光景を思い出しました。東急50年史の立体化工事図面を見てみます。取り敢えずお詫び迄。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/16 16:57