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2010/06/08

コメント

今年90歳になる伯母と、11日に会います。昭和20年まで旗の台に住んでいました。父よりは記憶力がまだあるので、聞いてみたいと思います。
私の記憶ですが、昭和30年代には、この橋は、あったと思うのですが……

上の図の東側の陸橋は記憶にありませんが、長原側の陸橋は歩道橋のような両袖に1/2メートルの階段があって競り上がっていました。当時の環七は平面交差でした。

よかった!私の記憶が合っていたようです。
旗の台一の橋は「ドンドン橋」が通称です。

>>池上線跨線橋「ドンドン橋」の安全対策と落下防止の改修(旗の台5)

【本コメントは、私 XWIN IIの方で誠に勝手ながら一部削除してあります。りっこ様には恐縮ですが、理由は察して下さいませ。】

ご説の通り多分33.33パーミルの急勾配でした。等高線を見てもそれが実感できます。東側の現在踏切になっている所の北側が高台の空き地になっていましたがその理由が分かったような気がします。

旗の台文化センターを右手に見て、踏切を渡っていく道、というのは、私の中学校時代の通学路でした。
昭和前期 日本商工地図集成(昭和8年)の地図で、ここのところの道が、山形になっているのが、ずっと不思議でしたが、今回その疑問が氷解いたしました。
本当にありがとうございます。

思い出したことがあります。何遍もすみません m(_ _)m

旗の台文化センターを右手に見て、旗の台2号踏切を渡ります。渡ってすぐ右手にアパートが見えて、そこと駐車場との間に、階段の道があります。その道を右折すると、すぐに道はまた右折となり、そして池上線の線路の手前で、切れてしまいます。

ここの道、不思議に思っておりました。が、これがおっしゃっておられる跨線橋のあった道なのではないでしょうか。
この道はなぜこんな形状なのだろうと、かねがね思っていたので、今回のご説明で、非常に納得できました。

りっこ様、コメントありがとうございます。

>ここの道、不思議に思っておりました。が、これがおっしゃっておられる跨線橋のあった道なのではないでしょうか。

一番奥まったところ(線路に最も近い大きな木のあるところ)がかつて跨線橋のあったところですが、公道から入り込むところは異なります。単に、大きな敷地を分割するための私道かと思います。

本日改めて運転台から両側に階段のある太鼓橋が昔の姿で残っていることを発見して小生の不見識を深く恥じる次第です。立体化工事の時に下を削って橋を平らにしたものと思い込んでいたのが間違いの元でした。現実はそのまま上り坂を残して環七の手前で逆に下り勾配になっています。工事費の関係もあったのかもしれません。手前の踏切の北側の台地が空き地になっており子供の頃によく遊んだものですが、そのときパンタグラフが屋根に付きそうになるまで押し下げられていた光景を思い出しました。東急50年史の立体化工事図面を見てみます。取り敢えずお詫び迄。

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