東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 前編のつづきです。
「なぜ道路の東側なのか?」
単純な記載ミス。こうしてしまえばそれで終わりだが、誤りにも理由があるだろうと考える私は、次のような理由があるのではないかと考える。
- 開業当初は道路の東側にあったが、途中で西側に移転した情報を得ることができず、そのまま東側に記載され続けた。
- 実地確認した者が方位を南と北を勘違いし、西側だったものを東側に誤って記載してしまった。
- 第二版のため、現地確認をせずに関連資料(公官庁提出資料)から類推して記載してしまった。
- 他地図(逓信省地図や都市計画地図等)を参照した際、参照元資料が誤っていたため、これを引き継いでしまった。
- やっぱり担当者の記載ミス。
以上、5つの理由を思いつくまま考えてみたが、私が思うのは「当初は東側だった」説と「他地図・資料引用元誤り」説、そしてその両方が混在する説の3つのうちにあると考える。
まず、「当初は東側だった」説について。これについて、私は可能性の高い説の一つと考えている。その理由は、本門寺道駅が誕生した経緯を考えれば、そういう可能性もあると思うからだ。本門寺道駅は、目黒蒲田電鉄が目黒線(目黒駅~丸子駅 [現 沼部駅])に続き、蒲田線(丸子駅~蒲田駅)を開業させ、目黒駅~蒲田駅間の直通運転を開始した当初に存在しなかった。もっとも、蒲田線(丸子駅~蒲田駅間は、耕地整理事業が進行中で、開業当初の途中駅はわずか2駅(新田駅 [現 武蔵新田駅]と矢口駅 [現 矢口渡駅])しかなく、耕地整理等の進捗状況を見ながら鵜ノ木駅 [現 鵜の木駅]と下丸子駅が開業している。これら両駅は蒲田線建設中から駅開設が予定されていたが、本門寺道駅は予定すらなかった。これが決定的な違いである。
しかし、国立公文書館所蔵の資料を紐解いているとき、次のような文書の存在から、蒲田線開業直前には本門寺道駅の計画はあったことは確かなようである。
本門寺道仮停留場新設ノ件
大正十二年十月二十七日附監第三二一九号ヲ以テ御認可相蒙リ候弊社線矢口蒲田間ニ来ル十月十二日ヨリ十三日迄池上本門寺会式ニ弊社線ヲ利用スル旅客ノ便ヲ図リ本門寺道(ほんもんじみちとルビ付)仮停留場ヲ新設致候間別紙図面相添ヘ此段及御届候也
大正十四年十月二日
これによれば、大正12年(1923年)10月27日(蒲田線竣功検査3日前)に、池上本門寺お会式に合わせ臨時駅(仮停留場)の新設を2日間に限り認可を受けており、これを2年後の大正14年(1925年)になって実行しようということがわかる。つまり、蒲田線開業前に本門寺道駅の計画が存在したこと。そしてそれはお会式の期間のみに限られていたことがわかる。この理屈からすれば、たったの2日間のみの臨時駅であることから、駅設備は相当簡易なものであったことが予想される。当時の鉄道設備法令等に暗い私であるが、それを恐れずに予想することとして、単に石を積み上げた程度の簡易ホームであったのではないか(駅本屋や改札設備もない)、と。
そして、このわずか2日間だけの臨時駅(仮駅)だったはずの本門寺道駅は、お会式の終わった後もそのまま仮営業を続けることになる。既定事実化そのものの行為であるが、その「言い訳」は、鉄道省にあてた「目電第三七一号 大正十四年十月十一日付 矢口蒲田間ニ仮停留場設置ノ件御届」に、概要として以下のような内容が書かれていた。
概要:仮停留場を二日間限りで設置依頼したが、沿線住民の増加によりその利便性に満足させるため、永久に設置としたいが、とりあえずは11月30日まで設置延期してほしい。
当時の鉄道会社が当局(鉄道院や鉄道省等)宛に出す文書は、多くが法令・命令等に従えなかったことに対する言い訳に終始しているもの(例えば、池上電気鉄道の建設工事遅延に関するもの)が多く、本件もたったの2日間だけの仮営業を認められた駅に対し、そうならなかった的な言い訳である。それを驚くべきことに営業許可前日(10月11日)に「沿線住民の増加によりその利便性に満足させるため、永久に設置」というのである。まだ、開業していないのに臨時駅を永久化する。何ともすごい理屈であるが、実際、沿線住民の増加というのはあって、矢口駅などは池上電気鉄道の駅から離れていることもあり、かなりの乗降客が集中していたのは確かである。
とりあえず、11月30日まで設置延期とした後、翌年5月7日になって本門寺道駅は仮駅から正式な駅へと昇格する。資料がないのでこれも予想するほかないが、臨時駅を正式な駅とする以上は、おそらく駅設備も本設備とする必要があるだろう。ただ、これも当時の鉄道会社が当局に出している文書を見れば、意図的に仮設備として営業させてほしい的なものは多数有り、正式な駅に昇格したからといって設備もそうなったという保証はない。ただ、確実なのは、時代が下って昭和7年(1932年)頃に至るまでの間に、駅本屋や改札口ができていたことは当時の写真資料から明らかである。
以上を整理すると、
- 大正12年(1923年)10月27日 池上本門寺お会式への旅客輸送を対象とした仮駅設置認可。
- 大正12年(1923年)11月1日 丸子駅~蒲田駅間、開業。目黒駅~蒲田駅間、全通。
- 大正14年(1925年)10月2日 本門寺道仮駅、新設申請。
- 大正14年(1925年)10月11日 本門寺道仮駅、11月30日まで設置延長申請及び永久化伺い。
- 大正14年(1925年)10月12日 本門寺道駅開業。
- 大正15年(1926年)5月7日 本門寺道駅、仮駅から正式な駅へ昇格。
という流れになる。
以上の流れから明らかなように、本門寺道駅は当初、開業期間を区切った臨時駅として当局に申請・認可を受けた駅だった。名は体を表す、のように本門寺道駅は、池上本門寺のお会式にあわせて臨時に開設されたもので、予定ではお会式終了の10月13日でその営業を終わる予定だったが、追加申請によって仮駅の開業期間が延長され、なし崩し的に恒久的な駅となったのである。この駅の設置は、言うまでもなく池上電気鉄道が池上本門寺お会式で潤っていたのを横目に見ながら、当時は「がら空き電車」を運行していた目黒蒲田電鉄にとって、格好の猟場であったに違いない。そこで、池上電気鉄道が蒲田駅~雪ヶ谷駅間で立ち往生している間に、目黒方面からのお会式需要を掠取しようと考えるのは自明だろう(当時は、池上電気鉄道も目黒蒲田電鉄も目黒駅~蒲田駅間だった)。さらに、目黒方面からだけでなく、蒲田方面からも「本門寺道」といういかにもそれっぽい名称(しかも蒲田駅から1駅目)としたら、勘違いして池上駅よりも本門寺道駅の方が近いとする人々もそれなりにあったに違いない。
(今日的にはちょうど花見の季節であるので、洗足池の桜見物に対し、最寄り駅は東急池上線の洗足池駅なのだが、これを東急目黒線の洗足駅と勘違いしたりする人々と同じ理屈と考えればおわかりだろう。実際、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の争いは、洗足池でもあったのだが…。)
こんな状況では、当時、目黒駅や五反田駅までの開業どころか、雪ヶ谷駅までの延長しかできていなかった池上電気鉄道は、目黒蒲田電鉄の本門寺道駅の設置までの経緯に対し、憤懣やるかたない怒りを持ったことは十分に予想されるが、今はこの話題ではないのであえてふれない。
さて、本門寺道駅が当初は2日間限りの仮駅として用意されたということは、その駅設備はどうだったのだろう。開業当初から複線ではあったが、すべて電車は単車運転だったこともあって、臨時駅という性格から通常の駅設備よりも劣るものだったことは確実である。さらにいえば、臨時駅の頃は蒲田駅発から(下り電車)のみが停車し、上り電車は停車しなかった(=ホーム等の設備不要)かもしれない。様々なことが考えられるが、大正15年(1926年)の3,000分の1都市計画地図を見ると、次のように掲載されている。
何と、道路の真ん中に駅を表す四角が書かれている。さすがに道のど真ん中に駅があるのは考えにくいので、どのような時にこのような表記となるかを考えれば、それはこの四角の前後に上り専用、下り専用のホームが分離しているときに使用される表記法であることがわかる。即ち、当該道路を挟んでそれぞれに駅ホームが存在した可能性も指摘できるのである。仮駅の構造がどういったものかはこの地図からではもちろん不明だが、仮にホームのみで駅本屋もなく、改札等もなかったとしたら、このような道路を挟んでの配置も十分に考えられるものとなる。そう、路面電車の駅(停留所)のような構造である。
──と、ずいぶんと長くなった。本当は後編としてすべてを書ききるつもりであったが、やはりそう単純な話ではなかったので、次回(今度こそ後編)に続くとします。
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