1924年(大正13年)5月、東京府荏原郡の名所・旧跡などを紹介する「荏原名勝」(出版:翠紅園。価格:40銭)という書籍、というよりは小冊子(70ページ程度)が出版され、内容は荏原郡(今日の東京都品川区、目黒区、大田区、世田谷区等)の交通案内を含む、いわば観光ガイドのようなものである。この本に手書きの荏原郡交通全図が掲載されているが、これがなかなかに興味深い内容である。
ご覧のように、北が上ではなく西が上となっているのは記載上の都合なのかもしれないが、なかなか慣れないと見にくいものである。このうち、池上電気鉄道に関係する部分を拡大すると、
このようになっており、時代的に蒲田駅から雪ヶ谷駅までの部分開業であった。ここに記載されている駅名は、
- 蒲田
- 蓮沼
- 池上
- 光明寺
- 末広
- 御嶽前
- 雪ヶ谷
とあり、御嶽前が御嶽山前の誤りだったり、手書き地図なのでやむを得ないが、縮尺等もおかしな部分はあるが、同時代資料としての価値はけっして低くはないだろう。ここに「光明寺」と駅名が記載されているが、光明寺駅の存在を否定する見解を覆す資料の一つとしても価値がある。
また、記載されている池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の予定線も興味深い。池上電気鉄道は、大森駅までの本線はもちろん、五反田駅までの予定線と目黒駅までの予定線と2線あり、目黒蒲田電鉄は、大井町駅までの予定線は大岡山駅でなく洗足駅となっている。大正13年(1924年)当時、どのような状況だったと巷間理解されていたこともわかるだろう。正誤の有無は常に気にとどめておく必要はあるが、やはり同時代資料は参考になる。
といったところで、4月最初の記事はここまで。
XWIN II様
興味深い名所案内図有り難う御座いました。小生の小学校低学年のころの50銭銀貨と言えば大変なお金でしたが40銭と言えばそこそこの値段ですね。
洗足田園都市の開発が記載されていますが宅地造成時の地図が中々見つかりません。
荏原土地の造成地が池上駅の南側に記載されています。現在でも碁盤の目のようになっています。綿貫氏は荏原郡の有力者でしょうか。
臼田坂上の磨墨の墓や万福寺も梶原一族に縁があるのでしょう。
現存しない京急の山谷、学校裏、八幡,鈴が森も懐かしく感じました。駅と駅の距離が異常に短かったことが印象に残っています。
今後もこの種のパンフレット類の掲載を心待ちにしています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/01 09:58
この手書き地図が「荏原名勝」という小冊子の付録的扱いであることに注目すると、ここに記載されたもの=今で言う観光資源であったことがわかります。そう思うと、寺社仏閣がほとんどということから、明治末期の東京案内と基本的に変わらないことが確認できます。
なお、池上競馬場跡地については、荏原土地が造成したというよりは、徳持耕地整理組合の施行した耕地整理事業を流用したか、あるいは相前後して行ったとすれば、雪ヶ谷のものと同じく、耕地整理前に展開したものと思われます。
投稿情報: XWIN II | 2010/04/04 08:10
XWIN II 様
駒沢大学の記録によれば荏原名勝が綿貫氏により図書館に寄贈されたとのことですが、やはり当然と言えば当然ですが荏原土地とは深い関係があることを示しているようですね。綿貫氏に関するサイトで同氏が金物相場で大打撃を受けた旨の記述がありましたが、当時私鉄各社が資金難に苦しんだことも理解できます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/03/01 10:42
デハ3300様
地図の中に如意庵が記載されていますが、出世観音です。サイトで調べましたが、こんな所でも焼夷弾の被害を受けたとのことでびっくりしました。昭和20年当時はまだ田畑が多いかなり田舎であったと思いますが呑み川沿いに工場が多数ありましたのでそこを目標とした関係かも知れませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/03/01 23:00
木造院電マニア様
久が原の空襲ですが、私んの大叔父(祖父の弟)が今のグリーンハイツ(昔の公団ですね)の2国からさかをあがりきったところい住んでいましたが、空襲にあったそうです。それがいつのことなのか聞き漏らしました。となりの地主さんに聞いたところ、2回か3回だったそうです。久が原小学校の崖下にも防空壕がありましたし、千鳥町駅の東側の崖にも私が子供の頃(昭和42年ころ)まで防空壕があり、貴重な遊び場でした。
投稿情報: デハ3300 | 2013/03/04 00:36
デハ3300様
情報有り難う御座います。
久が原の出世観音のバス停は以前庄仙と呼ばれていたそうですが、たぶん小字でなないかと思います。近所に松仙小学校がありますが、何か関係があるのかもしれません。如意庵は築地の料亭の新喜楽のオーナーが仏門に帰依してたてた寺院の一つのようです。築地の新喜楽は佐藤栄作元総理が脳梗塞で倒れたことで有名です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/03/04 14:55
「荏原区」と「池上線」つながりで、やや強引ですみません。
昨日、古地図を入手いたしました。
昭和21年発行 内山模型製図社製 「荏原区全図」です。
買うつもりはなかったのですが、余りにもおかしな地図なので、つい購入。
昭和21年の地図なのに、例のコの字型跨線橋が掲載されています。そして。
「東京横浜電鉄池上線」「東京横浜電鉄大井線」「東京横浜電鉄目黒線」の各路線名
あの~~
池上線が、「東京横浜電鉄」と呼ばれていたことは、ありませんよね?ありますか?
(大井線も目黒線もですが……)
投稿情報: りっこ | 2013/03/08 18:58
りっこ様
古地図の危険性は前の地図を実地検分しないで丸写ししている場合があることです。戦略爆撃の効果を検分するために米軍が撮った航空写真も当時は公開されていなかったのでコの字橋がそのまま掲載されたのでしょう。昭和14年頃に東横電鉄が目蒲電鉄を合併して、その後大東急となるまで東横電鉄でしたが、経営者が同じですので免許の関係かも知れませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/03/09 10:40
既にコメントを入れていただいていますが、戦後間もない頃の民製地図は「出すこと自体」に価値があったので、中身が正確かどうかは二の次です。都市計画図等においても同様であったので、内容が古いまま残るというのはやむを得ないかと思います。問題なのは、それを鵜呑みするかどうかかと。
で、東京横浜電鉄という名称についてですが、目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併した際、二週間ほど目黒蒲田電鉄を名乗った後、すぐに東京横浜電鉄へと商号変更しています。よって、目黒蒲田電鉄傘下にあった各路線はいずれも東京横浜電鉄の所属であり、時期だけが問題だとなります(昭和21年時点では東京急行電鉄なので)。
投稿情報: XWIN II | 2013/03/09 21:32
XWIN II 様
コメント有り難う御座います。
昭和21年と言えば日々の食事にも事欠く困難な時代でしたし、紙も配給制であったと記憶しておりスので、仰せのとおり発行されたこと自体貴重なことだと思います。
東横電鉄となった後でも、現場社員の一部で目蒲の社章の制帽を冠っていたことを思い出しました、
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/03/10 07:59
木造院電車両マニア様
XWIN Ⅱ 様
コメント、ありがとうございます。m(_ _)m
私も、昭和21年という、終戦直後の年から考えて、「この地図、一体、どのあたりの地図を準拠にして書いたものなんだろう?」と、半ば呆れ、でもまあ、歴史的にこれだけ「おかしな」地図が現存する、ということを知るのも一興かなと思いました。でも、例の「東千束駅」のモニュメントといい、知らない人は、これを事実と受け取ってしまうのが怖いです。「慶応グランド」しかりですよね。
ところで、不勉強な私にどうかできれば教えてくださいませ。
大枠はつかめたのですが。
結局「東京横浜急行池上線」という名称は、いつからいつまで現存したのでしょうか。
そして、順番として
池上電気鉄道→目黒蒲田電鉄池上線→東京横浜電鉄池上線→東急池上線
で、いいのでしょうか?
あと、上記の間に、「五反田線」という呼称(正式名称?)の時代もあったようで、地元の古老が昭和40年代に記した地元史は、すべからく「五反田線」表記なので、軽く混乱しています。
投稿情報: りっこ | 2013/03/10 16:03
>結局「東京横浜急行池上線」という名称は、いつからいつまで現存したのでしょうか。
既コメントどおり、東京横浜電鉄成立後から東京急行電鉄成立前までです。
>上記の間に、「五反田線」という呼称(正式名称?)の時代もあったようで
これについては当blog記事
http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2012/07/ikeden_stationsww.html
のコメント欄をご参照願います。
なお、今回はコメントを付けましたが、付か(け)ない場合もあることもあわせてご理解願います。
投稿情報: XWIN II | 2013/03/12 07:36