慶應義塾大学新田球場における旅客争奪戦 前編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)
慶應義塾大学新田球場における旅客争奪戦 中編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)
いきなり開設直後、都市計画道路の計画地に指定され、移転の大ピンチを迎えた慶大グラウンド前駅だったが、もともと臨時駅として開業したこと。さらには嶺鵜耕地整理組合の耕地整理事業が遅れていたこと。この二点からもわかるように設備面・位置的な面からもベストな駅とはいえなかったこともあって、移転そのものは駅の土地さえ確保できれば何とかなった。借地扱いではあったが、嶺鵜耕地整理組合内の事業地に駅の場所を確保し、無事に本駅として移転がなった。ここが、今日知られる慶大グラウンド前駅の場所となる(昭和4年の1万分の1地形図に掲載。既に光明寺駅は廃止となっているので記載されていない)。
この結果、ベストに近い場所(池上電鉄線形上、最も慶應義塾大学新田球場に近い)に移転することができたが、今度は光明寺駅との駅間が200メートルほどに狭まってしまい、しばらくの間は慶大グラウンド前駅と光明寺駅は併存していたものの、ついに光明寺駅は廃止となった。いくら1両編成の単行運転であったとしても、さすがに駅間200メートルでは一方の駅の存在価値は否定されよう(下図の「初代」とあるのが最初の慶大グラウンド前駅。二代とあるのが上地図に記載のある二代目慶大グラウンド前駅)。
光明寺駅は池上駅~雪ヶ谷駅延長時に開業してからわずか4年ほどで廃止となったことから、東急電鉄50年史での扱いは無視され、これに基づく鉄道ファン向けの書籍等をはじめとして「なかったこと」扱いされてしまうようになる。戦前に刊行された東京横浜電鉄沿革史では光明寺駅の記載はあるが、各路線の駅解説には記載されなかった。おそらく、資料をそのまま転載したところでは「光明寺駅」の存在をそのままとしたのだろうが、まさか開業して4年程度で廃止となる駅があったことなど、当時の東京横浜電鉄沿革史編纂者でも気付かなかったのかもしれない。このような経緯で光明寺駅はなくなり、この地域をカバーする池上電気鉄道の駅は慶大グラウンド前駅に取って代わられることになる。
しかし、せっかく移転したこの場所も、重ねて運が悪いことに新たな都市計画道路(今日に言う池上通り)に指定されてしまい、移転を検討せざるを得なくなる。だが、この場所を動くことは新田球場への最寄り駅として、より遠くなってしまうことから、都市計画道路事業開始による強制執行が行われるまでの間は、そのまま放置という策を採ったのである(実際、現在においてもまだ、当該部分の都市計画道路は事業開始決定されていない)。
新田球場を挟んで、池上電気鉄道の慶大グラウンド前駅と目黒蒲田電鉄の武蔵新田駅は、この旅客輸送の争いを行ったわけだが、大変残念なことに輸送実績がどうなったのかは窺い知ることができない。それは、資料を確認できないことが最大の理由だが、そのほかにも急速な住宅地化が進んだ結果、野球場への輸送客よりも通勤・通学の輸送客が占める割合が大きいことによる。ただ、どちらを新田球場への足として利用したかについては、立地条件だけでなく接続駅の利便性を考慮に入れれば、目黒蒲田電鉄の武蔵新田駅であって間違っても慶大グラウンド前駅とはならないだろう。池上本門寺への最寄り駅が池上電気鉄道の池上駅なのか、目黒蒲田電鉄の本門寺道駅かに比べればはるかにましではあるが…。
この新田球場を挟んで争われた結果は、目黒蒲田電鉄による池上電気鉄道の株式買収、合併によって終結する。そして、慶大グラウンド前駅は、場所を元光明寺駅付近に戻して千鳥町駅と改名し、現在に至るのである(本門寺道駅が道塚駅に、洗足公園駅が北千束駅に改名したのも同日)。
以上、慶應義塾大学運動場(新田球場)を巡る目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の争いを、武蔵新田駅と慶大グラウンド前駅を通じて眺めてみた。やや書き足りない感はあるが、千鳥町駅に至るまでのそれほど長くない期間にこれだけの歴史があると示しただけでも有意だろう。といったところで、今回はここまで。
最近のコメント