前回予告どおり、「東急の駅 今昔・昭和の面影」(著者 宮田道一。JTBパブリッシング)の大井町線部分(130ページから)について見ていこう。
P133「駅名の由来の下神明は、蛇窪村の鎮守の天祖神社がそのように呼ばれてきたことによる。」
「回想の東京急行Ⅱ」に関する指摘でも同様のものを行ったが、下神明駅となったのは駅の場所が昭和7年(1932年)に東京市荏原区下神明町(それまでは東京府荏原郡荏原町大字戸越)に由来し、この下神明町がもとは大字下蛇窪(同様に上神明町は大字上蛇窪)だったものを大字名改称運動をきっかけに天祖神社に因んで採用されたものである。よって、駅名の由来が下神明町であって、下神明町の由来が天祖神社に因むのである。なお、大字下蛇窪(それ以前の村時代も)、上蛇窪(それ以前の村時代も)双方に天祖神社があり、これは上下に分かれた際、神社もわけたことによる。
P137「昭和26年(1951)3月1日移転、池上線の旗ヶ岡と統合、旗の台と改称」
「回想の東京急行Ⅰ」と比べだいぶ正確になってきたが、旗ヶ岡駅と統合されたのは5月1日なので、もう一歩といったところか。なお、本文中に「工事の進み具合から同時開業ではなく、3月1日に東洗足を廃して使用を開始し、5月1日に旗ヶ岡を廃して池上ホームが使用を開始したのである」とあるので、単に記載を省略しただけなのだろうが、余白はあるので手抜きだろうか。
P141「旧駅名の「中丸山」というのは玉川村奥沢の小字であるが、昭和7年(1932)の市郡併合により、駅の所在地が世田谷区から目黒区へと変わったことから、現在の駅名に改称した。」
緑が丘駅の項。「回想の東京急行Ⅱ」と同じ誤りをしているので、以前に指摘したものをそのまま掲載する。
完全なる誤り(東急50 年史を参照したか?)、かつ後半はでっち上げ。そもそも荏原郡玉川村大字奥沢に中丸山という小字などない。この誤りを鵜呑みしただけでなく、後半の目黒区に属することになりというでっち上げを妄想したと予想される(これは東急50年史には記載なし)。駅の場所は、当初から荏原郡碑衾町大字衾字谷畑下、つまり市郡合併後の東京市目黒区緑ヶ丘、その場所である。よって、一度も世田谷区域(玉川村大字奥沢)になど属していない。
P141「ホームからの眺めとして東京工業大学構内の春の桜、秋の紅葉と、まさに緑が丘である。」
同じく緑が丘の項だが、筆者の言う緑は残念ながら、多くは目黒区緑が丘ではなく目黒区大岡山である。また、呑川及び九品仏川の緑道を指すならば、住居表示上で緑が丘は正当だが、言うまでもなく本来の緑が丘(緑ヶ丘)ではない。緑ヶ丘(緑が丘)とは、今日の目黒区緑が丘一丁目及び二丁目の北側台地(斜面)部分を指す。
P146「駅名の由来となった等々力渓谷は駅の南側、~(以下略)。」
等々力駅の項。駅名は渓谷からと言うよりは、玉川村大字等々力に因むといった方がいいだろう。玉川村で当時最も人口を抱えていた等々力地区は、当時村長も輩出しており、この豊田村長が玉川全円耕地整理組合を主導していたので、当然「等々力」という駅名の採用はあってしかるべきというものだろう。現在も玉川地区の中心地であり、世田谷区役所玉川支所をはじめ、行政関係の施設が多い。
前にも記したことがあるが、さすがに目黒蒲田電鉄由来の大井町線だけあって、誤りは少ない。なので、次回以降と考えていた東急目黒線・東急多摩川線(82ページから)について引き続き見ていこう。
P89「洗足住宅地は武蔵国荏原郡の洗足、碑衾、平塚、馬込村に跨がっており、~(以下略)。」
洗足駅の項。コメントに窮するが、まず洗足などという村はないし、武蔵国時代を言うなら、明治22年(1889年)以降に合併名として誕生した碑衾が入るのは変だし…と困ってしまう。まぁ、細かいことはどうでもいいということかもしれないが…。分譲当時の表現で言えば、「洗足住宅地は東京府荏原郡の碑衾、平塚、馬込の3村にまたがっており」とすべきだろう。
P90「大岡山町の名は、昭和7年(1932)に採用された。」
大岡山駅の項。荏原郡碑衾町が昭和7年(1932年)に東京市目黒区の一部となった際、多くの新町名が誕生したが「○○町」というのは新興住民からはダサいと思われたのか、このあたりの目黒区発足時の町名は「洗足」「大岡山」「宮ヶ丘」「富士見台」「緑ヶ丘」「自由ヶ丘」など町と付かないものが多い。以上からわかるように、正しくは大岡山であって大岡山町は誤り。
P102「駅から新田神社へ向かう道路の右側に古いうなぎ屋が健在であるのがうれしい。」
これは誤りではないが、誤りが少ないので採り上げる。本書出版時(2008年8月15日初版印刷)においては、確かにうなぎ屋があったが、当Blog記事「山縣屋さん、お疲れ様でした(残念)」で示したように、残念ながら閉店してしまった。
P103「周辺は矢口村耕地整理組合が~(以下略)。」
正しくは、矢口耕地整理組合。どうやら、矢口村とあるのは東急50年史を参考とした結果のようだ。
P104「池上電鉄を吸収合併後に、池上本門寺に近くはないことから、地元の道塚を駅名とした。のちに町名は変わったが、道塚神社や道塚小学校にその名が残っている。」
道塚駅(廃止)の項。まず確認することは、昭和11年(1936年)1月1日に本門寺道駅から道塚駅に変わったこの日、確かに東京市蒲田区には道塚町という町名はあった。この道塚町は東京市合併以前は、荏原郡矢口町大字道塚であり、由緒ある名であるのは確かなのだが…。肝心の駅の場所が大字道塚の時代はもとより、道塚町になって以降の場所とも違う。何と駅の場所は蒲田区小林町にあったのだ。そして、のちに町名は変わったがとあるように、道塚町は戦後の住居表示制度によって消滅。新蒲田という何ともな名前となる。誤りではもちろんないが、先にもふれたように誤りが少ないので採り上げてみた次第である。
以上で、目黒線・東急多摩川線部分の検証は終わり。これまで見てきたように、以前の文献(「回想の東京急行」シリーズ等)に比べれば誤りは減ってきているが、まだまだ池上線に関する部分は多く残っていることが確認できた。そして、ここまで各種文献を確認してきて確証を得つつあるのが、やはり「東急50年史」の存在の大きさである。大げさに言うが、すべての誤りはここに通ずるような印象なのだ。ただ、「東急50年史」は膨大な量なので、あまり積極的に取り組みたくないと避けてきたのだが(苦笑)、これまで得てきた知見をもとに「東急50年史」に切り込んで行ってみようかと考えている。とはいえ、積み残しの課題も多く、さらにはおそらく今週末くらいには新VAIO Zもやってくる(はず)なので、これに取り組めるのはもう少しあとのことになるだろう。
といったところで、今回はここまで。
ありがとうございました。
本当にお勉強になり感謝しております (^_^)v
実は私が一番最初に書店で手にとったのが、この「東急の駅 今昔」でした。
そして、その次に購入したのが「街と駅 80年の情景」
最後に購入したのが「回想の東京急行」
発行年から言うと、「逆走」しちゃったんですよね。 f(^ー^;
ちなみに、フォトブックでも「旗ヶ岡駅」の説明として、「地名も荏原郡荏原町大字中延字旗ヶ岡であり」と明記。
いつか、この出版元に、ちゃんと教えてあげたいですよねぇ~間違ってるって!
投稿情報: りっこ | 2010/03/04 07:50
XWIN II様
洗足村
開いた口が塞がりません、大部分は碑衾村と平塚村で占められています。境界線は等高線から見て窪地に沿っているようです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/04 10:12
コメントありがとうございます。
「ちなみに、フォトブックでも「旗ヶ岡駅」の説明として、「地名も荏原郡荏原町大字中延字旗ヶ岡であり」と明記。」←以前、当Blogにも書きましたが、この表現を含む文の前後はWikipedia日本語版のパクリ疑惑があるんですね(80周年フォトブックの方が一年近く後に出ている)。せっかくなので、次回ネタ(3月5日)は80周年フォトブックの検証でもおこなってみましょうか。
「境界線は等高線から見て窪地に沿っているようです。」←おっしゃるとおりです。田園都市株式会社による耕地整理が行われる前は、今日の弁天池付近が碑衾と平塚の境だったのが、耕地整理後は洗足会館も面する前面道路が境界線として引き直されています。このあたりは耕地整理の結果、区画しやすいところで境界を引き直した結果ですが、東京23区内にも多数、昔の境界を引き継いでいる(一例として新宿区と文京区の境界は旧川道を継承)ものが残されています。自然境界が人工境界となるのもわかりやすさという点からはやむを得ないのでしょうが、それで行政区画が変わるのは勘弁してほしいというのもあるでしょうね。
投稿情報: XWIN II | 2010/03/04 13:00
XWIN II様
大岡山駅
大岡山町は存在しません。前述の大正12年の地図によると未完成の目蒲線の大岡山駅の位置は馬込村側にありすぐ北に大岡山の字が記載されおり、現在の駅も大田区です。ただし駐在所は碑文谷警察の管轄ではないかとおもいます。現在の大岡山は目黒区側になっております。
私の友人も通りを隔てて一方は大岡山小学校で、他方は清水窪小学校出身です。
現在の東工大の真ん中に池上村と馬込村の境界線が走っており、赤松小学校から来た道と北からの道が交差する等高線で一番高い所が出穂山と記載されています。送電線の位置は今とほぼ同じようです。碑衾西南部が国会図書館にもないようですが情報をお持ちでしたらご教示下さい。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/04 17:51
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
大岡山駅近辺は、田園都市が土地買収をはじめる以前から、3村の境界線は変わっていないような印象です。そして、大岡山駅の位置は、開業当初から荏原郡馬込村にあり、最初から駅名は隣村の字名から採ったことがわかります。また、隣接する池上村大字石川の小名に「大官山」(おおかんやま)というものがあり、この地域の古老曰く「おおかんやま」と大岡山のことを読んだ(呼んだ)という話もあることから、村境と関係なく「おおかんやま」と当地域をいった可能性も指摘できます。
なお、碑衾西南部地図については、探せば出てくるはずなのでしばらくお待ちください。
投稿情報: XWIN II | 2010/03/05 07:46
XWIN II様
大岡山の情報有り難う御座います。国会図書館の地図ですが和紙のような上質の紙に印刷されており、丁寧に保管されているので保存状態は良好です。戦時体制に入ってからの印刷物は紙質が悪く劣化したために多くはマイクロフィルム化されています。残っていても苛性ソーダで蝕まれています。問題の地図が探し出せることを期待してます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/05 09:42
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
メインノートPCを変えて初めてのコメントとなり、時間をあけてしまい恐縮です。
さて、問題の地図(碑衾西南部3,000分の1地図)ですが、とりあえず見つけられたのは昭和初期のもので、既に大井町線までが完成しているもの(ただし、大岡山から西側はまだ)でした。よって、ご期待には沿えないかもしれないといいつつも、これはこれでなかなか面白いのは、現在の東工大の敷地が現在と大きく異なっていること(これは当時の10,000分の1地形図でも確認はできます)で、この地図が正しければいったんは住宅地として分譲されたものがもう一度学校敷地となっているというものです。
また、東工大の敷地は闇の等価交換(蔵前=大岡山)で行われているとの噂がありますが、その後の調整にも紆余曲折があったとされているように、よくわかりません。ただ、確実に言えることは、3村の境界は変わっていないようだということくらいです。
投稿情報: XWIN II | 2010/03/10 13:13
XWIN II様
大岡山
コメント有り難う御座います。一旦宅地化されたことに興味があります。宣伝パンフレットでは大岡山も田園都市計画に入っている様に記載されています。大正末期の宅地化されていない昔の道路のみと、洗足田園都市のみならず他の土地も完全に宅地造成されている双方の地図はあるのですが、洗足田園都市のみ造成されている中間の地図は色々調べてみましたが未だに発見されていません。都立図書館では目下複写再生中のものがありますが完成する迄かなりの時間が掛かるようです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/10 18:34
りっこ様
東京都立図書館で城南地区電話名鑑を見ましたが、昭和5年の時点で長原には活動写真館はありませんでした。私の思い違いのようです。ちなみに当時の我が家の電話番号を見て懐かしく思いました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/10 22:25
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます&遅れて申し訳ございません。ようやくPC環境が整った故、普段のレスポンスに戻るかと思います。
さて、大岡山、というか東工大内敷地の一部がかつて住宅地(昔からのではなく区画整理され分譲されたような形)だった部分は昭和4年(1929年)1万分の1地図「碑文谷」で見ることができます。場所は、現在の目黒区と大田区の区界が東西に走っているあたりの南側。昭和4年時には細かい区画に住宅地表示が地図上に表記されていますが、昭和12年(1937年)時の地図になると大学本部(一番大きな建物)等に変わっています。無論、昭和4年より前の地図ではそういう区画された住宅地は見えません。
いったい、どういう経緯でわずか10年ほどで住宅地が消えてしまったのか…。さすがに地図の誤記とは思えないので。
投稿情報: XWIN II | 2010/03/15 07:30
XWIN II様
東工大
コメント有り難うございます。昭和8/9年頃だと思いますが学年祭に行った時は整備されおり織機の実験を見学したことを覚えています。当時は未だ花形産業でした。カネボウの末路を見ると隔世の感があります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/16 15:52
初めまして。
大岡山の記事を興味深く読ませていただきました。
「馬込村字出穂山」は、明治に入ってから住所として付けられたと思いますが、
現在の北千束・南千束(あるいは石川町?)のどの範囲が出穂山だったかを知りたいと思っています。
大正後期、東急に買収される以前の、東工大敷地内の土地の地番が表記されている地図というのは存在するのでしょうか?
当時の住所でいうと、馬込村字出穂山3470番台~3480番台が大学敷地内に含まれていると思われるのですが。
何かわかることがありましたら、お教えいただけると幸甚です。
どうかよろしくお願いいたします。
投稿情報: ブーゲンビリア | 2010/08/10 11:50
ブーゲンビリア様、コメントありがとうございます。
>現在の北千束・南千束(あるいは石川町?)のどの範囲が出穂山だったかを知りたいと思っています。
↑
文では伝えにくいですが、東工大の石川台地区あたりが出穂山です。で、東工大敷地の地番が明記されている地図は、明治末期に東京逓信局が編纂した荏原郡池上村及び荏原郡馬込村、荏原郡碑衾村の各地図にしっかり掲載されています。一部は復刻版も出されていますので、探せば古書店でも見つけることができるかと思います。
投稿情報: XWIN II | 2010/08/10 20:19
1929年陸地測量部の碑文谷を見ると、呑川本流と清水窪に挟まれた尾根の大岡山駅の北側の丘陵部分に大岡山と記されており南側の丘陵部分に馬込村の出穂山と記されております。ただここで興味深いことは、現在の北口商店街の東側の清水窪に向けての斜面に工業大学の建物が並んでおります。駅の南側の本館は既に完成しておりますがその南側は整備された宅地化されています。後日土地を北口と交換したのでしょうか?
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/11 12:54
XWIN II様
さっそくお返事いただきましてありがとうございました。
>明治末期に東京逓信局が編纂した荏原郡池上村及び荏原郡馬込村、荏原郡碑衾村の各地図
昨日、都立中央図書館へ行って調べてきました。
池上村と、碑衾村の原図は中央図書館が所蔵していましたが、馬込村は大田区立郷土博物館の所蔵でした。
が、郷土博物館編集の図録「大田区地図集成」の中に掲載されており、これを拡大コピーすることで、何とか目的の地番を確認することができました。
いずれも大正6年発行のものですが、この時代の地番入りの地図はないものとあきらめておりましたので、ひとつ問題が解決でき、すっきりしました。ありがとうございました。
木造院電車両マニア様
>駅の南側の本館は既に完成しておりますがその南側は整備された宅地化されています。後日土地を北口と交換したのでしょうか?
私の家も、かつて本館南側に畑地を持っていて(今回、探していた地番の場所なのですが)、昭和6年に、当時東急が所有していた清水窪の土地と等価交換しております。
キャンパスが分かれていて不便だったので、本館南側を拡張し、石川町地区と繋げて一つにしたかったようです。
投稿情報: ブーゲンビリア | 2010/08/12 12:06
ブーゲンビリア様
情報有り難う御座いました。小生は洗足に生まれ、第ニ延山小学校を昭和14年に卒業したものですが、当時北千束あたりから何人か越境入学していた生徒がいました。また同級生で東工大を卒業したものもおりましたが残念乍ら話が出来ない状態です、最近迄欧州の特許関連の翻訳を行っておりましたので東工大の図書室はよく利用しておりましたが、留学生の寮のあるところまで広大な敷地が広がっており、キャンパス内の散歩を楽しんでおります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/12 18:44
東工大のページへ行ってみたら、
「東京工業大学 130年の日々」
というところに、
「大正13年 東京高等工業学校 出穂山の門」という写真が掲載されておりました。
よろしかったら、こちらをどうぞです。
http://titech130.blogspot.com/2010/04/130.html
投稿情報: りっこ | 2010/08/12 20:42
ついでにこんな話も拾ってまいりました。
「石川台キャンパスの歴史は古く、東工大が昭和の初めに関東大震災に罹災し、大岡山に移ってきた時に既に平屋建ての研究施設が建設されています。しかし、当時は大岡山駅周辺、清水窪、石川台(当時は「出穂山」)とキャンパスが分かれており、不便でした。そこで、昭和3年の冬、当時の中村幸之助校長は東急電鉄(当時は、目黒蒲田電鐵株式会社)の五島慶太氏と交渉を開始し、東工大が持っていた碑衾(ひぶすま)町呑川付近+清水窪付近の3万2千坪と、本部と石川台の間の民有地1万8千坪を交換して、昭和9年10月22日、めでたくキャンパスが一つにつながったのでした。(中略)土地取得に関しては、公式の記録にもあっさりとした記載しかありません。東工大が東急電鉄と交換した民有地は、もともと東急が所有していた土地ではなく、東急は各土地所有者からまず土地を買収し、その土地をもって東工大との土地交換を行ったようです(「東京工業大学六十年史」) 」
投稿情報: りっこ | 2010/08/12 20:51
りっこ様
東工大ホームページ有り難う御座います。図書館に通う度に稲荷神社と門の痕跡が気になっていましたがこれではっきりしました。130周年だそうですが出かけるのも暑さが収まってからにしようと思っています。もう兵隊さんのときの元気さはとっくの昔ですからね(笑い)。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/12 23:04
木造院電車両マニア様
そうなんですね。どうやら来年が130周年みたいです。今年からいろいろな行事がスタートしています。今年の11月の1日~30日 百年記念館で、「大岡山キャンパスの歴史」展があるそうなんですよ。この百年記念館って、一般の人でも入れるのでしょうか?ご存じだったら教えてください。1カ月間やっているので、私も機会があれば行きたいと思っています。(入館可能なら、ですが・笑)
それにしても、東工大って、10月にはミス東工大コンテストも開かれるんですね。ちょっとびっくりしました。毎年やっているんでしょうかね(;^_^)
あ、それからまたおまけ話なんですが。こんな広告を見つけました。
昭和初期(10年より手前)だと思われますが、正確にはいつだかわからないのが残念ではあります。一応書いてみますね。
【大岡山分譲地新規売出】(現代漢字に直してあります)
土地の御選定は伸び行く大岡山へ
位置 目蒲線 大岡山駅前 1丁
工業大学校舎跡
住宅地 90坪より
価格 住宅地 51円より
特色 土地高燥(←この字は判別ちょっと不明)交通至便
道路下水瓦斯水道完備
特典 土地代金十年月賦
建築資金低利融通
案内書贈呈
目黒蒲田電鉄会社 田園都市課
投稿情報: りっこ | 2010/08/13 06:55
りっこ様
大岡山駅前分譲地の広告を見て父が洗足で購入した価格が坪35円ぐらいだったと記憶しておりますので昭和恐慌の影響が尾を引いていた昭和7年ぐらいでしょう。東工大も130周年だそうですが、最近は住民登録でそのくらい長生きしている人もいるようです(笑い)。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/13 08:33
コメントありがとうございます。
>【大岡山分譲地新規売出】
↑
ここはおそらく大岡山駅北口方面の跡地、現在でいうと大田区北千束一丁目36, 37, 39, 40, 42番あたりの分譲地かな、と思います。
http://www.its-mo.com/z-128181213-502882448-18.htm
で、出穂山に関する話が出てきましたので、今日のblog記事は「出穂山」について取り上げてみました。こんな調子では新奥沢線や洗足田園都市に関する論考ができるのかと思われるかもしれませんが、ご容赦願います。
投稿情報: XWIN II | 2010/08/14 09:31