「回想の東京急行Ⅰ」(大正出版。著者:荻原二郎・宮田道一・関田克孝)は続くⅡと共に、東急電鉄公式資料に次ぐ素晴らしい資料本である。様々な東急電鉄に関する本はあるが、歴史に関してはこの本がバイブル的なものであることに疑いはない。だが、おそらく鉄道関係(電車や施設、設備等のハードウェアとか)の記述は優れているのかもしれないが(残念ながら私はこの方面は門外漢)、歴史記述に関する部分には錯誤と思われる誤りが意外に多い。
大した本でなければ、誤りばかりでも気にならない(ゴミなので)が、優れた本であればどうしても気になってしまう。そこで、私のレベルで気付いた点を列挙し、自分の備忘録とするほかに公開することで参考としていただければ幸いである。では、「回想の東京急行Ⅰ」116ページから検討していこう。
P117「大正12年8月28日までに桐ヶ谷駅まで、次の大崎広小路駅が同年10月9日に開通した。」
大正12年(1923年)ではなく、正しくは昭和2年(1927年)。以降の本文では正しい年となっていることから単なる錯誤であると思うが、知らぬ読者が鵜呑みすれば誤りを蔓延させるものだろう。
P117「池上電鉄の迷走の歴史は、新奥沢線の開業にも見ることができる。」
東急50年史から?なのか、新奥沢線という呼称が蔓延っているが、同時代資料を見ればすべてが「奥沢線」(「新」と付記されたものはない)と表記されている。これは地図はもちろん、池上電鉄自身が申請した公文書等からも明らかであり、勝手に固有名詞を改変させられた事例である。本書が悪いわけではないが、結果として不適切なので指摘しておく(本文以下にも多数あるが、取り上げるのはこれのみにとどめる)。
P123「しかし、昭和20年5月25日、駅とその付近も含めて、品川荏原一帯は米軍の大空襲により消失してしまった。」
正しくは、昭和20年5月24日。夜に空襲を受け、事実上の運転休止に陥ったのは翌日なので、表現を変えれば誤りではなかった(例えば、空襲を受け、昭和20年5月25日から事実上、駅が休止状態となる云々)。
P124「カーブ区間の荏原中延駅を発車してすぐ直線となり、旗ノ台駅に向かって連続の下り勾配となる。」
本書は、一貫して旗の台駅を旗ノ台と誤記している。これは錯誤ではなく、完全な誤りといっていいだろう。さすがにこれは看過できないミスと気付いたのか、続く「回想の東京急行Ⅱ」では訂正記事として「「旗ノ台」駅は、片仮名の「ノ」は使用せず、開業当初から「旗の台」でした。」とあるが、Ⅰしか見ていない人にとっては辛い。
P125「昭和2年8月26日 旗ヶ岡駅として開設」
正しくは、昭和2年8月28日。単なる錯誤だろう。
P126「昭和26年5月1日 旗ノ台駅として開設」
先にもふれたが、タイトルからして「旗ノ台」となっているが正しくは「旗の台」。本書のうちで、最大の致命的な誤り。これに続き「昭和41年1月20日 旗の台駅に改称」とあるが、まったく事実でない。でっち上げである。この記述から錯誤でないことがよくわかるだろう。そのように、著者は理解していたのである。
P128「馬込まで続く上池上の住宅地と商店街の玄関口で、駅名は後背地である旧馬込村の字名から名付けられた。」
長原駅の説明だが、誤りと言っていいかは微妙だが、ひっかかる表現である。まず、馬込まで続く、とあるのがどのあたりを指すのかにもよるが、単純に考えれば、環七通りを挟んだ東西の商店街を指すのであれば、上池上ではなく現行の上池台という名を言うべきだろう。また、いわゆる上池上商店街(上池台三丁目から五丁目辺り)を言うのであっても住宅地をも指しているので、やはり上池台かと考える。上池台の大部分は、住居表示前まで上池上町と呼称していたので、そう記したのであれば著者の知識の更新が成されていないと結論づけられるが、上池台となったのはもう40年も昔のことなので、いくら何でも…。
そして、後背地という表現も気になる。長原駅の場所は、開設当時は荏原郡馬込村字長原。そして荏原郡馬込町字長原、荏原郡馬込町大字南千束、東京市大森区南千束町、東京都大森区南千束町、東京都大田区南千束町、東京都大田区上池台一丁目と変遷しているが、現在から見れば馬込地区とは言えないが、開設当時から少なくとも東京市合併まで、もう少し長い目で見れば上池台になるまでは馬込地域と言っても誤りではない。なので、何をもって後背地としているのか。甚だ疑問である。
P132「石川台1号踏切を越えると、台地の平坦直線部分に入り、初代、二代目の雪ヶ谷駅跡を見ながら200mほどで雪ヶ谷大塚駅に着く。」
雪ヶ谷駅跡に関しては、以前当Blogにおいて誤りを指摘(「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」ほか)しているが、石川台駅の項である本文は単に雪ヶ谷大塚駅ではなく雪が谷大塚駅が正しいとの指摘にとどめる。なお、この文より前にも同様の表記があるが、これは昭和28年(1953年)のことを説明しているので、当時の駅名である雪ヶ谷大塚駅という表記で問題ない。
P134「雪ヶ谷大塚」
タイトルがこのようになっているが、雪が谷大塚が正しい。
P134「昭和3年10月5日 150m蒲田寄りに移設」
誤り。おそらく著者の一人である関田氏の説だと思うが、いい加減、この説をあちこちで流布するのはいかがなものかと感ずる。この日付は、奥沢線(何度も書くが新奥沢線は誤り)の開業日であり、新奥沢駅までの分岐のため、駅の位置を当初の位置から移動の結果だが、初代の駅の位置を決定的に誤っているので蒲田寄りとでっち上げている。正しくは五反田(石川台)寄りに移設となる。
P134「初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置に開業した。設備の詳細は不明で、営業期間も短く、昭和3(1928)年10月には新奥沢支線の開業にともなって約150メートル蒲田寄りに移設した。」
これまで見てきたように、まったくの事実無根の情報を元にしているので、すべて誤りと言っても過言でない。設備の詳細が不明どころか、もとよりそのような場所に駅などないので、痕跡を探す行為そのものが無意味である。
P137「新奥沢支線」
池上電鉄の歴史を見ていくと、この路線は国分寺線と表記されている。そして、開業後しばらくすると自らは奥沢線と称し、同時代の地図でもそのように表記されるようになる。なので、客観的に見ても新奥沢(支)線となるはずはないのだが、東急電鉄関係者が有意をもって「奥沢」でなく「新奥沢」としたのだろう。奥沢は自社の名前なので、それを池上電鉄に窃取されたのが気に入らなかったのかもしれない(推測)。
P138「このような雰囲気のなかを直線で約400m進み、ややゆるい左へのカーブを描いた下りカーブを描いた下り勾配を進むと久ヶ原駅に着く。」
いちいち言うのもどうかと思ったが、一貫性を欠くので指摘すると、正しくは久が原駅。
P140「久ヶ原」
タイトルがこのようになっているが、久が原が正しい。
P140「昭和11年1月17日 久ヶ原駅に改称」
単なる錯誤で、正しくは昭和11年1月1日。
P140「駅名は、池上村久ヶ原をそのまま採用している。」
久ヶ原に改称した時期は、既に東京市大森区久ヶ原町となっており、かつ駅の位置は久ヶ原町ではない(当町は近いが、駅位置は東京市大森区調布鵜ノ木町)。まったくの誤りだと決めつけられないが、しっかり書いてほしい。
P142「大正15年8月6日 慶大グランド前駅として開設」
正しくは、慶大グラウンド前駅。当Blogでも「池上電気鉄道 慶大グラウンド前駅について(確定編)」をはじめとする記事で扱っているように、すべては東急電鉄系の社史が「慶大グランド前」と誤っているために、これのみを盲信した結果の誤りである。
P142「駅名は、大正13(1924)年に現在の千鳥町二丁目付近を慶應義塾大学が1万4千坪の土地を購入して、グランド等を造成したことによるものだが、ごく初期の駅名に「光明寺」を名乗ったという説もある。」
責任者出てこい!と言いたい(笑)ほどにひどい誤りである。中でも、光明寺駅の存在がなかったかのような都市伝説的扱いはひどすぎる。光明寺駅は、東急電鉄系の最古の社史である「東京横浜電鉄沿革史」にもきちんと記載されている(本史では冷遇されている池上電鉄関連記事だが、さすがに光明寺駅については記載を省略などしていない)ので、著者のこの扱いは何を典拠としているのかまったく疑問である。なお、光明寺駅と慶大グラウンド駅前の歴史を近いうちに取り上げる予定で、その時にしっかりとした論考を行うつもりであり、今は指摘するにとどめておく。
他には、千鳥町二丁目ではなく千鳥二丁目が正しい。
P142「この駅名は東調布町から分離した新町名をそのまま駅名としたもので、古来からの地名ではないようだ。」
市町村の「町」と市町村の下位に位置する「町」(大字)との混同で、例えば東京都西多摩郡奥多摩町の「町」と東京都渋谷区宇田川町の「町」は明らかに意味合いが異なることは言うまでもないが、これを同じものと混同しているわけである。なので、分離などしていない(むしろ東調布町は東京市に合併されて大森区の一部となった)し、新町名として調布千鳥町のことを言うなら、荏原郡東調布町大字嶺のうち字千鳥窪と字横須賀が、東京市大森区調布千鳥町となったと書くべきである。また、古来からの地名という古来をどこまでさかのぼるかにもよるが、どんなに新しくとも明治初期の地租改正時には千鳥窪(千鳥久保)とあり、嶺村が村内の地域(字、小名)に瑞祥名を採用したのが江戸後期であることを踏まえれば、けっして千鳥町が最近の地名でないことは明らかだろう。
P144「昭和2年8月までに複線化と蒲田寄りのカーブが緩和され、車庫は調布大塚に移転した。」
池上駅の説明であるが、複線化は7月末には完成し供用を開始している(鉄道省技官による「池上電気鉄道株式会社蒲田雪ヶ谷間複線工事竣功監査報告書」が昭和2年7月26日付で報告)。別ページには7月と書かれている箇所もあり統一性がないのは、複数の著者によるものなのか、単なる錯誤かははっきりしない(「~までに」とあるので誤りとまでは言えないが)。また、蒲田寄りのカーブについては、若干の曲線補正があったかもしれないが、現在の線形になるのはさらに時代を下る。昭和8年(1933年)の航空写真を見れば、開業当時とほとんど変わらない線形を確認できるので誤りだろう。
P144「進行右手一帯は、旧池上競馬場の跡を田園都市会社が分譲したもので、広大な方眼状の住宅用地が続いていたが、(以下略)」
旧池上競馬場の跡地を耕地整理(区画整理)したのは、徳持耕地整理組合の施行によるもので、地主(土地の所有者)に田園都市株式会社の名はない。というよりも、田園都市株式会社は耕地整理終了前に目黒蒲田電鉄と合併しているので、そもそも分譲のしようがない。正しく書くなら、旧池上競馬場跡地は徳持耕地整理組合によって耕地整理したものの一部を目黒蒲田電鉄が委託販売を行った、とした方がよい。
以上、東急池上線部分に限って、誤り等の指摘を行った。本書は、鉄道ファン向けのものであって、鉄道設備等に関する記事内容が多くを占め、歴史部分の記述はそれほど深くもなく浅い内容が書かれているに過ぎない。よって、ここまで細かく追求するのはイヂメではないかと言われるかもしれないが、確認してみれば明らかなように救われない誤記述も多い。ただ、本書は「回想の~」と銘打っているので、「ノ」や「ヶ」については昭和40年(1965年)までを回想しており、あえてそのように表記しているならば誤りではないことを最後に付言しておく(このとおり読み取ってくれる読者も多いと思うが)。
こういった書籍は、さらにこれが典拠元となって誤りが蔓延する可能性が高く、東急電鉄系の社史等も含めて誤りの再生産は至るところに見られる(Wikipedia日本語版でも)。無論、私の調査にも誤りの可能性はあるが、それでもこうして示すことで多少は参考になればと思う。
といったところで、今回はここまで。
初代雪谷駅
内務省復興局大正14年10月補正の地図によると、雪谷駅は中原街道側から脇道の突き当たの線路の西側に1本のホームがあるだけでおそらく単線の開通でしょう。この脇道は現在の南雪谷2-1-13/15の道路に当たり、踏切で反対側に抜けています。線路の東側には破線で示されたホームがあります。現在は道路の南側が空き地になっており資材置き場になっています。線路は道路からやや北に伸びていますが、崖線からは遠く離れており、道床の工事の痕跡もありませんのでここが初代雪谷であるとおもいます。踏切の北側は今日でも鉄道用地がやや広いような気がします。アルプス電気の裏の道の水道局から中原街道に曲がる位置からもこの場所が推定できます。初代雪谷駅が崖線にあったとは考えられませんが、貴殿の意見をお聞かせ下さい。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/21 13:45
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。取り急ぎ、このコメントのみにお答えいたします。
「アルプス電気の裏の道の水道局から中原街道に曲がる位置からもこの場所が推定できます」←実はこの鍵状に曲がる道路の位置が、大正末期と今では異なるのです。中原街道拡幅前には、今よりもさらに南側で中原街道とつながるようになっていたのですが、西側への拡幅によってこの道路も中原街道に組み込まれてしまい、現在地に直角に曲げて中原街道に接続するように変更になりました。また、大正末期の道路パターンは本記事内に紹介したリンク先記事でも記していますが、現在の道路パターンと違います。このあたりを考慮に入れて地図を読み込む必要があり、それを誤読した結果が関田氏の説というわけです。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/21 14:00
追記です。
国立公文書館で確認した昭和3年5月16日付「停留場ヲ停車場並ニ位置変更認可申請」によれば、国分寺線との分岐点とするため中心哩程約7鎖移動(大森起点3哩70鎖50節から3哩77鎖35節)とあり、これからも7チェーン=140メートルほど五反田寄り(大森起点からの距離程なので今日に言う蒲田側からの距離になる)に初代雪ヶ谷駅が移動することが確認できます。
この文書と各種地図資料から読み込めば、関田説の誤りが立証できるでしょう。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/21 14:09
XWIN II様
雪谷駅
情報有り難う御座います。確かに中原街道の西側が削られています。地図に出ている同街道を横断する踏切を小型電車が走っていたことを思い出しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/21 15:37
訂正記事を拝見させていただいて、一々納得してしまいました。
駅の名前が違うのは、致命的ですよね。
大体、あの後ろに「旗ヶ岡駅の写真がない」って…………ちょっと調べれば、私のような素人でも、あるのがわかんのになぁと思いましたよ。
回想の東京急行。
私や友人たちは、その写真を懐かしんで読む本、という位置づけにしております。
特に中原街道を踏切で横切っていく大井町線の姿。
それは、私や友人たちの、はるかな郷愁をかきたてる、写真でありました。
投稿情報: りっこ | 2010/02/21 19:45
コメントありがとうございます。
今朝ほど、大井町線部分をアップしましたが、池上線と比べて誤りが少なかったです。これは著者の知見(東急関係者)に加え、池上電鉄の歴史が正しく継承されていないことが理由なのかな、と思ったり。さらに蛇足的には私が池上電鉄の研究をここのところ取り組んでいるので詳しくなってしまったこともあるか…。
「地図に出ている同街道を横断する踏切を小型電車が走っていたことを思い出しました」←公文書をあたっているうちに、電鉄会社にとって府道(中原街道)を横断させるだけで当局の許可が必要になるという「一手間」が加わり、なかなか手続きが大変なことを知りました。横断している、という写真が残っていれば…と思いますが、当時は高価な写真でわざわざおさめる被写体でなかったのかな、と。
「私や友人たちは、その写真を懐かしんで読む本、という位置づけにしております」←おっしゃるとおりですね。私的には、公的機関(区役所等)が積極的に古写真を収集して権利関係を解消して出版してほしいな、と。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/22 07:23
「区役所等が積極的に古写真を収集して」
はい。同感です。でもって、品川区は、これにチャレンジはしてくれたんですよ。
品川区のホームページにある、「しながわWeb写真館」では、古写真をお持ちの方は、送ってくださいと呼びかけておりました。
で、そこで昭和35年当時の、中原街道を踏切で横切る大井町線の姿、見ることができました。嬉しかったです。
ただ、あの当時、「高価な写真でわざわざおさめる被写体でなかった」とおっしゃられるとおり、写真は、「記念」として使われるものであり、「趣味」で電車の写真を撮られていた方は、ごくわずかだったのではないかと。
何せ、私が小学校時代、白黒の焼き増しが1枚60円。(カラー写真は200円)
物価関係を考えると、今でいえば300円ぐらい?現像も高くて、カメラというのは、高等な趣味でありましたねぇ
我が友人のお父様が、池上線、旗ヶ岡駅の踏切番という、大変旗ヶ岡に密着しておられながら、カメラそのものを購入したのが昭和30年で、もうそのときは旗ヶ岡駅は存在していなかったという。大変残念でありました。お父様も故人でいらっしゃり、お話しも今は聞けませんし。
投稿情報: りっこ | 2010/02/22 07:44
XWIN II 様
初代雪谷駅
大正14年の内務省の地図の中の中原街道と調布町役場北側の道との交差点をA、御嶽山駅の踏切をBとして、AからB迄の距離を三角形の底辺として同地図の駅の位置を測定してみましたがお説のとおりでした。余談ですが、ちなみに小生は迫撃砲大隊に入隊し標定点と観測所と目標と砲を結ぶ三角形で射距離を測定する演習を行いましたのでこれを思い出して計算してみました。耕地整理や曲線の変更に影響されていない点としてAとBを選んでみました。暇人の余興だと思ってお読み下さい。ただし市販の地図は道しるべ程度で全く当てになりません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/22 10:32
コメントありがとうございます。
「品川区は、これにチャレンジはしてくれたんですよ」←ですね。ただ、それほどカネをかけていないのは明らかで、こういった後生に残すべきものはWeb上だけではダメで、書籍・資料集的な形にしないとやはり残らないものです。もっともっと電子出版が盛んになればいいのでしょうが…。
「余談ですが、ちなみに小生は迫撃砲大隊に入隊し標定点と観測所と目標と砲を結ぶ三角形で射距離を測定する演習を行いましたのでこれを思い出して計算してみました。」←実践(実戦)で三角測量をご体験されていらっしゃれば釈迦に説法ですが、地表面の起伏の程度が山岳地帯のそれよりも圧倒的に低い平地部分においては、地図上の三角測量(的方法)で精度的に十分かと思います(地図では道路の幅員が強調されますし)。
「市販の地図は道しるべ程度で全く当てになりません」←市販地図のそもそもの目的が「道しるべ」のようなものが第一なので仕方がないことです、が、しかし。戦前の地図資料(中でも手書きの線路計画図等)は不正確なものも多く、なかなか原点特定するのも難しいですね。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/23 07:19
XWIN II様
コメント有り難う御座います。
貴殿の航空写真上の雪谷駅の説明と全く一致しましたので驚きました。現在のアルプス電気の裏の通りの鉤の手状の所に囚われて石川台3号踏切の所と誤認していたことがわかりました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/23 12:47
XWIN II様
駅のホームの位置を特定する時に、御嶽山駅のように16M級の電車の単車運転を基本とした長さであるために判断を難しくしています。国電から譲渡された車両も反対側に運転台を設けて単車運転できる様に改造されて納車されています。雪が谷大塚への変更に関する昭和16年の雪谷行きのサボーを付けた電車の写真でさえ単車です。無論総括制御ですので2両運転も可能ですが、戦前の写真は全て単車運行のものばかりです。何時から2両あるいは3両運転となったか知りません。多摩川線に至っては4両可能な様に延長されていますが、3両の所で仕切られています。乗客の増加が見込めないのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/23 20:57
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
池上線の電車編成数が2両以上になったのは、確実なことは言えませんが、仰せの通り、写真等を見た感じでは太平洋戦争以降のような印象です。また、駅のホームについてですが、池上~雪ヶ谷間の開通時には、池上駅を除くすべての駅(光明寺駅、末広駅、御嶽山前駅、雪ヶ谷駅)周辺の耕地整理が未実施だったため、耕地整理事業によってホームの位置をずらされている(場合によっては線路も)と思われるような事例が確認できます。
(けっして地図が不正確だという理由だけではないような。)
なので、駅の位置特定作業は慎重な判断が必要なのかな、と思うわけです。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/25 07:57
XWIN II様
池上線の駅の位置
情報有り難う御座います。
公文書で信号機の設置の件が記載されていますが、最初は習志野の鉄道連隊のような単線の仮設線路で路面電車のような信号機もなしでとりあえず日銭を稼ぐ姑息な方法で開業したのだと思います。路線の移動があったような事例があればその一つでもご教示下さい。
その後も川崎財閥自体が不況で痛手を受けたように聞いておりますので、中途半端な支援しか出来なかったのでしょう。大崎広小路の環状線との交差点の角の所にあった川崎第百銀行を思い出しました。日本橋の高島屋の斜め前に川の字のマークを残した正面口が保存されていると思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/25 09:26
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
「路線の移動があったような事例」←確認を取っていないことをご容赦願いつつ可能性のあるところは、大正14年3,000分の1地図から見ると、「御嶽山前駅の北方100~200メートル先」、「末広駅[久が原駅]の位置。前後含む」あたりをあげることができます。
「日本橋の高島屋の斜め前に川の字のマークを残した正面口が保存」←今度日本橋に出たときにでも探してみます。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/26 07:25
XWIN II様
線路の移動に関する情報有り難う御座います。久が原駅付近は新道と旧道が入り交じって複雑になっており田園調布のように整然と区画整理がなされていませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/27 09:29
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
久が原駅付近は、昭和7年の東京市合併直前において、池上町と東調布町との境界に近く位置していたので、耕地整理上、うまく道路をかみ合わせられなかった結果です。
また、道々橋から南西方向に続くメイン道路を残したことも影響しているかと。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/28 10:58
XWIN II様
久が原の住宅地
情報ありがとうございます。池上線の西側の久が原の南斜面を有する舌状台地の所は上手に宅地造成されており、高級住宅が建ち並んでいます。耐震問題で問題を起こしたヒユーザーの社長も以前ここに住んでいました。個人的にはこの付近の雰囲気は好きです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/28 13:07
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
久が原の耕地整理(池上西部耕地整理組合)は、方形の大きめな区画になっていますが、これが災いし、戦前でも家を建てるには広すぎたため、大半の区画がさらに細い道で区画され直されています。この細い道路が尺貫法で言う2間(約3.6m)程しかなく、戦後の建築基準法で4mの幅員を求められたため、いわゆるセットバックをしなければならなくなっています。
投稿情報: XWIN II | 2010/03/02 07:37
XWIN II様
久が原の住宅地
貴重なコメント有り難う御座います。購買力を予測することが如何に困難であるかを実感しました。最近は賃貸アパートでも規模の設定を誤るとテナントが入らず往生している所を散見します。売れ筋を掴んだ所は結構入居者を探すことが出来ていますので不況のせいだけにすることはどうかと思います。ただグローバルには不況は深刻で駅前の優良な賃貸マンションでもがら空きなところが増えているような気がします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/03 21:32
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
池上西部耕地整理組合、特に大字久ヶ原地域の区画が大きいのは「推測」ですが、減歩率を抑えるためかと予想します。道路の幅員は広い(4間程度)ですが、区画を割らざるを得なくなったのは、ご指摘の通り「売る」「貸す」ためでしょう。
投稿情報: XWIN II | 2010/03/04 07:07
XWIN II様
コメント有り難う御座います。道路幅の件ですが、本件に関係ありませんが、東邦医大通りや池上通りに沿って普通の乗用車でも入れないような極端に狭い道路が多数残っていますが、昔の名残でしょうか。もっとも東邦医大通りでさえボトルネックになっている所が依然としてあります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/04 10:25
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
「東邦医大通りや池上通りに沿って普通の乗用車でも入れないような極端に狭い道路が多数残っていますが、昔の名残でしょうか。」←これは耕地整理の際に確保された水路の跡です。耕地整理は住宅地、としてでなく無論、本来は「耕地」のために行われるべきものですので、当然、耕地として利用する想定だったところでは幅1~2間ほどの水路が確保されている例も少なくありません。久が原の幅員4メートル未満の道路とは、作られた経緯が異なりますね。
投稿情報: XWIN II | 2010/03/04 13:04
XWIN II様
コメント有り難う御座います。確かに東邦医大通りが鬼足袋通りと呼ばれていたころ、まだ田んぼが残って居りました。沢田通りとの交差点の近くに眼科医のご子息と同級で遊びに行ったことがありますが、昭和15/6年頃でさえ田んぼが残って居りました。自宅のすぐ側に暗渠化された水路があり狭い路地となっていることを見落としていました。扱いは自治体の管轄になるようです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/03/04 18:04