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2010/01/21

コメント

今回も懐かしいバス停の名前を有り難うございました。中でも思い出の深いものを取り上げてみます。
星商業前には星講堂があり、戸田城外先生が主催する受験の模擬試験を受けた場所です。同先生はその後創価学会を創設されました。教育界では著名な方で担任の先生が戸田先生を教室に招かれてお話を伺ったことを覚えています。
中延車庫前は長原に向かって左側に車庫があり整備点検をしていた光景を思い出します。旗が岡駅前と殆ど同じ場所ですがその後変更されたのですか?
田園調布ではなく下沼部となっているのは目蒲に対する対抗意識でしょうか(笑い)
諏訪分には調布女学校があり、新奥沢線の駅名になっています。
東急の牙城である田園調布駅が終点である点に興味があります。
後藤慶太がよく免許を下ろしましたね(笑い)
池上バスは好成績を上げていたと聞いています。

XWIN II 様
バス停の追加として
大井街道となっていますが洗足坂上の所であるとおもいます。
ここで中原街道から長原商店街の方に分かれる道があり、そのまま進むと伊藤町の品鶴線の踏切の先で一方は大井三つ又に他方は大井滝王子を経由して池上街道と交差し東海道線のガードをくぐって第一京浜まで続いていました。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

「旗が岡駅前と殆ど同じ場所ですがその後変更されたのですか?」→については、改めて私の記載ミスを疑いましたが、そうではありませんでした。ただ、単一資料のみでの判断ですので、別途他資料をあたってみたいと思います。推測ではいくらでも言えますが、やはり対抗資料がなければ意味がありませんので。
「田園調布ではなく下沼部となっているのは目蒲に対する対抗意識でしょうか」→単に大字名を採っただけ、なのかなと。さすがに田園調布駅前はそのままですが、地名的には昭和6年時にはまだ田園調布になっていないので、東京市合併後には変わった可能性があります(未調査)。
「東急の牙城である田園調布駅が終点である点に興味があります」→池上電鉄奥沢線の初期計画では、乗入れ先が田園調布駅東口だったので、鉄道がダメならせめてバスだけでも…という流れかと思います。乗合自動車の許認可は同じ鉄道省でも、部門が違っていたのかもしれません(邪推)。
「大井街道となっていますが洗足坂上の所であるとおもいます」→ご貴見のとおりです。ちょうど洗足池からあがっていって、途中Vの字になったあたりですね。往事は重要な分岐点だったのでしょうか。

こうして見ると、まだまだ調査不足の感が否めません。やはり基本は複数資料をあたることからだと痛感しました。

田園調布東口/池上電鉄
環八が立体交差となる前に目黒蒲田線の下り側の法面が削られており、東急の重役をしていた義兄からこれは新奥沢から田園調布に延長するために池上電鉄が用地を確保した跡であると言われたことを思い出しました。
田園調布から六間道路を通って雪谷迄のバスは東横線と池上線を結ぶ重要ルートでいつも混んでいるので閉口します。

上記の池上電気鉄道のバスは、後年、「東急バス」に移行していくのでしょうか?
興味深いです。

ところで、本日、逓信総合博物館に行ってまいりましたっ!
特別閲覧とか、初体験でしたが。閲覧室、8畳~10畳ぐらいの広さ。そこに椅子が10脚ぐらいかな。コピー機があり、係員のお姉さんが常駐しています。
最初は私一人だったのですが、最終的には4人の人が調べもの。
皆さん、電話帳を見ておられる。で、係のお姉さんに聞いたら、「電話帳はコピーは禁止なんです」ということで、調べものをしておられる皆さん、デジカメが写真撮りまくり。何だかおもしろい光景でした。
私、最近購入したデジカメの操作がうまく行かず。字がぼけてしまい、途中からあきらめて、携帯で写真撮りました
 σ(^◇^;)。。。。。。

てか。
なかったんです。残念ながら (>_<)。。。

私の調べ方がよくなかったのかもしれませんが、調べた限りでは見当たりませんでした。

昭和26年~32年にわたって調べたのですが。
その前に閉館しちゃったのかな。でも我々の記憶にあるぐらいだから、それよりさらにもうちょっと後年に、ナンカあったはずなんですが…………

まだまだナゾは続きます。

XWIN II1様
延々調布東口/池上電鉄
補足
池上電鉄が確保した用地のおかげで環八踏切の立体化工事の時に電車の運転を止めること無く一車線ごとにずらしながら施行できました。世間のことは将来どうなるか分かりません。
りっこ様
電話帳
個人情報か著作権かわかりませんが、ネットで自由に情報が採れる今日で時代錯誤の気がしますね。
残念ながら戦後のことは記憶にありませんので残念ながら何とも申し上げられません。

工業大学前
中原街道近く迄の広大な敷地を確保し蔵前工業専門学校を誘致した東急の先見の明に感服します。以前特許翻訳を行っていましたのでここの図書館をよく利用しました。慶大の日吉キャンパスに匹敵する環境で、春は桜が綺麗です。

木造院電車両マニア様

電話帳へのアドバイス、ありがとうございました。
目的は果たせませんでしたが、昭和26年当時、小池の近くに、古川ロッパ氏が住んでいたとか、女優の高橋とよ氏が池上洗足池の長原寄りに居住していたこととかがわかって、おもしろかったです。
それから、「こういう閲覧もあるんだ!」ということがわかった、ということが一番大きな収穫でした。木造院様のアドバイスがなければ「わからない世界」だったので、本当に感謝いたします。

古い電話帳を眺めて「なっつかしいなぁ~~」と詠嘆しているおじ様がおられました。
私も、ついででしたので、母方の祖父が経営していた会社の電話番号(昭和26年当時)を、デジカメでパチリと写してきました。当時は大崎にあり、今も会社は一族で経営しておりますが、都内には本社のみ残り、会社の大半が地方へ移転しています。今度母に会ったらその写真を渡すつもりです。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

「新奥沢から田園調布に延長するために池上電鉄が用地を確保した跡であると言われたことを思い出しました」→このあたりのお話しが正史にまとめられるとありがたいですが、50年史以降、まともなものを出していない東急電鉄なので、100年史まで待たねばならないのか…といったところでしょうか。
「池上電鉄が確保した用地のおかげで環八踏切の立体化工事の時に電車の運転を止めること無く一車線ごとにずらしながら施行できました」→仰せの通り。鉄道用地は現在使う予定がなくても、いつ使うかわからないのがこの手のもので、しかも、後から入手しようとしても困難なケースがほとんど。東急電鉄の場合は、過去にもそういった痛い目を多く見ているので、よくご存じかと思いますね。
「中原街道近く迄の広大な敷地を確保し蔵前工業専門学校を誘致した東急の先見の明に感服します」→関東大震災で壊滅的被害を受けた蔵前の校舎用地と等価交換方式で入手したというところに、官庁出身の五島慶太氏の威力が垣間見えます。こういっては何ですが、簿価上は蔵前の土地と大岡山周辺の土地は等価だったのでしょうが、実際は当時の東京都心の浅草蔵前の土地と周囲に田畑しか展開していない土地とでは、現金化するにも違いはあったはず。ここで得た資金がどこに使われたかが気になります。

りっこ様
笹丸にはエノケンが住んでいてその子供が第二延山小学校に入学して、運動会の日に当人が見物に来るのではないかとの噂で期待しておりましたが来ませんでがっかりしたことを覚えています。来る訳ありませんよね。
XWIN II様
義兄も故人となりましたので詳しいことを聞く由もありません。残念です、

XWIN II様
バス停
中延車庫が移転した後のバス停は
昭和医専前の代わりに車庫前
次が旗が岡駅前となって、中延車庫は無くなっています。

XWIN II様
星製薬前は長らく廃墟の様になっていた現在のTOCであり桐が谷地蔵前は坂を昇りきった品川用水と交差する辺りにあったと思います。現在も残っていたような気がしますがあまり旧道を通る機会がありませんので確信がありません。

りっこ様
職業別電話帳
都立図書館にもあるようです。一度OPACで東京の電話帳のタイトルで調べてみて下さい。

りっこ様
職業別電話帳
都立図書館のOPACのタイトルは
職業別電話名鑑で検索できます。電話帳では検索できませんでしたので改めて申し添えます。風邪で3日程静養しておりましたがもう回復しました。私も暇を見て閲覧しようと思います。これは民間版ですので内容は分かりません。広告収入が目的ですので網羅しているかどうか分かりません。

木造院電車両マニア様

ありがとうございます。
でも、昭和26年以降でないと、職業別はなくて、昭和25年のは、ものすごい分量ですよね。あれでは実際問題調べるのはちょっと無理っぽいかなと。逓信総合博物館では、この昭和25年の電話帳は、ウィンドウに飾られておりました。閲覧可能なのでしょうか……

で、昭和26年以降は調べてみましたが……ありませんでした。

りっこ様
不徹底な情報で申し訳ありませんでした。
都立図書館(有栖川公園)には;
 東京城南職業別電話名鑑(大東京通信社)
1933,1940年版
 職業別電話名鑑 荏原 大井 碑衾(荏原名鑑普及社)
1930,1931年版
が閉架で蔵書されています。
 国会図書館や他の公立図書館も検索してみましたがこれだけ揃っておりません。

 民間の刊行物ですので古書のネット販売があるようですが高価で手が出ません。

 通信事業は開始される時にアメリカのように民営か官営かで議論が交わされたようですが、官営と決定し、逓信省が独占的に事業を行ってきました。今日でも市内の交換網はNTTが握っていますので、ここを経由しなければ通話できません。
 電話帳が電話名鑑というタイトルで売り出されているとを逓信省が例外的に認めていたのでしょう。今日でもいい意味でも悪い意味でも名簿屋は存在しています。

木造院電車両マニアさま

ありがとうございます!
機会がありました、また中央図書館に行ってみます。
本当に、助かります。こういうのを調べるのも、おもしろいですよね。

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