東洗足駅の出入口はどこにあったのか? Prolog(第一回)
東洗足駅の出入口はどこにあったのか? Monologue(第二回)
東洗足駅の出入口はどこにあったのか? Dialog(第三回)
東洗足駅の出入口はどこにあったのか? Analogue(第四回)
以上、東洗足駅の出入口に関して4回に渡っておおくりしてきたが、私の中ではこれも旗ヶ岡駅関連記事の一環として位置付けている。というのは、東洗足駅の出入口が旗ヶ岡駅との乗り換え客需要によって変遷があったように、旗ヶ岡駅でも同様のことがあったためである。これを示すには、相手側の東洗足駅についてふれておくことが必要であり、そして駅統合によって生まれた旗の台駅との関連においても欠かせない考察であるというわけである──といかにも終わりそうな書き方を前回しておいて、まだ続くのかよ的な感じだが、一つ気がついたことがあったので追記。
まずは、前回も示した昭和3~4年頃(1928~29年頃)の3,000分の1地形図、東洗足駅周辺をもう一度示そう。
この地図において、目黒蒲田電鉄大井線を横切る道路は、地図東側(右側)から3本あるように見える。このうち、最も東側にある道路は線路と道路を重ねて書いてある。つまり、ここには踏切があって線路を渡ることができる道路という記載であり、実際、旗の台駅改良工事(急行待避設備)が行われるまでは、ここに踏切があった(さらには旗の台駅西口もあった)。なので、この記載に問題はないだろう。
続いて東側から2番目の道路は、東洗足駅のすぐ東側に位置し、ここは線路の下に道路が書かれ、線路と道路は重ねて書かれていない。線路の下を道路が通る、いや道路の上を線路が高架橋で渡るように書かれているが、これも実際そのとおりで現在もこのようになっている。
さて問題の3つ目。東洗足駅の西側にあるくねっと曲がった道路が線路をまたいで……いない。踏切であれば重ねて書くだろうし、高架橋で渡るのであればそれなりの表記がなされるだろう。しかし、□状に書かれる駅本屋すぐ西側にある道路は線路を渡っているように書かれておらず、しかも線路北側には駅本屋から中原街道まで通ずる道路(通路)と線路の間に何やら書かれている(書かれているというよりはスペースが空いている)。これだけ見ると線路沿いまでは道路はあるが、線路を渡ることができるようには見えないのだ。
真相はどうなのだろう。
考え方は二つある。一つは地図の記載ミス。こう片付けるのは簡単だが、消極的な逃げであって「証拠がないからなかった」という後学的な浅慮そのもので過去の歴史を学ぶ姿勢では絶対に採ってはならないものである(とはいえ、実際には記載ミスは思いのほか多い)。二つ目はこの記載どおりという立場で、後にこの線路を渡る踏切ができたという見解に立つものだ。どちらを採るかは悩ましいところだが、現時点で確認できる資料からは、後者としておきたい。
といったところで、今回はここまで。
駅の東側のガードは確かに存在し、中原街道からガードをくぐり抜けてすぐ左側に私の叔父が住んでおりました。更に東側の踏切は閉鎖される直前に子供が事故に遭うという悲惨な話を覚えています。下りホームから改札口への踏切のすぐ西に三間通りに抜ける直線の道につながる踏切があったことは確かですが,斜めの道と下りホームの南側の道はきおくにありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/12 08:36