« 2011年の予想:Sandy Bridge > Atom > Nehalem | メイン | 東洗足駅の出入口はどこにあったのか? Analogue »

2010/01/10

コメント

昭和4年の地図の東洗足派出所の位置が踏切を丸子側に渡った所にあることに注目しました。踏切の手前に移転したのは多分中原街道の拡張後であったと記憶しています。派出所の巡査が酔漢の暴行を受けて殉職されたことを思い出しました。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

派出所・駐在所の場所は、そうそう移動(異動)するものではないので、この東洗足派出所の移設はまさに拡幅用地にぶち当たってしまったから、ということですね。現在は、「旗の台交番」とここも旧称でなくなっていますが…。

XWIN II様
地図の番地が左書きで地名が右書きであることに注目しました。当時の国粋主義的風潮を示しています。その時の風潮は合理主義を凌駕することがあります。

本日、地元の県立図書館にて、木造院様に教えていただきました「昭和前期日本商工地図集成」を閲覧してまいりました。物すごく大きな本で、重くて往生しましたが、でも改めてまたいろんなことがわかり、大変興味深い資料です。こういうものにめぐり会えるなんて、ご教示なければ一生わかりっこなかったことなので、その意味でも、XWIN ll様、木造院電車両マニア様、重ね重ね感謝しております。

荏原区の昭和8年の地図がありました。
周囲のお店の名前も多少入っています。
これは、このブログの一番上の昭和4年の地図と、道的にはほぼそっくりです。短絡路もはっきり二本線で描かれています。
ただ、線路をまたぐ道は、描かれておりません。XWIN ll様がおっしゃられるとおり、この道は、あとからできたものかと思量されます。

この地図は、バス停も詳しく載っているのですが、目を引いたのは、駅北側から中原街道に道が伸びており、中原街道とぶつかったところに「東洗足駅前」というバス停が書かれており、さらに三間どおりにも、もう一度「東洗足駅前」の表示があることです。
中原街道のこちら側と向こう側では、バス停の位置が真向かいではなく、かなり斜めの位置にあったのだなと思いました。東洗足駅から中原街道に直接向かい、中原街道にぶつかったところを右折した地点には「東洗食堂」があったとの記載があります。ここらあたり、結構にぎわっていたのかもしれませんね。

この資料は大変貴重なものなのですが、まことに残念ながら。
荏原区・蒲田区はあるのですが、大森区がありません。現存していないそうです。
く~~~残念です。

木造院電車両マニア様、りっこ様、コメントありがとうございます。

貴重なご意見、ご感想をいただきありがとうございます。
バス停留所名については、近日中に記事としてあげてみようかと検討しております(役人答弁風)。無論、最初は「旗の台」(東洗足・旗ヶ岡)にからめていこうかと。

XWIN II様
バス停の名前にはそろぞれ思い出がありセンチメンタル ジャーニーの感があります。期待しております。

コメントの確認

コメントのプレビュー

プレビュー中です。コメントはまだ投稿されていません。

処理中...
コメントを投稿できませんでした。エラー:
コメントを投稿しました。コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。 さらにコメントを投稿する

入力された文字と数字は画像と一致していません。再度入力してください。

最後に、下の画像の中に見える文字と数字を入力してください。これはプログラムを使ってコメントを自動的に投稿するのを防ぐために行われています。

画像を読み取れない場合は 別の画像を表示してください。

処理中...

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

アカウント情報

(名前とメールアドレスは必須です。メールアドレスは公開されません。)

2024年1 月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31