東洗足駅の出入口はどこにあったのか? Prolog(第一回)
東洗足駅の出入口はどこにあったのか? Monologue(第二回)
の続きです。
前回、前々回と目黒蒲田電鉄大井線の東洗足駅の出入口について、中原街道口は形跡は残されているものの、旗ヶ岡駅との短絡道への接続が失われてしまっている現状についてふれたが、もう少し資料を見ていこう。前回は戦後間もない昭和22年(1947年)米軍撮影の空撮写真を確認したが、今回は戦前の地図をいくつか確認する。まず最初は、昭和4年(1929年)発行の荏原郡荏原町地図より、東洗足駅周辺をご覧いただこう。
「くぞんせしがひ」とあるのが、東洗足駅。地番の数字は左から右だが、かな漢字は右から左と、この頃は今のアラビア語表記に通ずるものがあるが、なかなか興味深いものとなっている。比較のため、前回も掲示した昭和22年(1947年)の空撮写真をもう一度示そう。
駅北側(写真上は上側)が写真では見にくいが、更地のように見えつつも地図に示される道路があったような形跡もかすかだが見える(ような気がする)。また、駅西側(写真上は左側)の線路をまたぐ、くねっと曲がった道路は確かに存在することも確認できる。地図ではまだ中原街道拡幅前なので、駅から中原街道までの距離があるが、拡幅後の予想点線を考慮に入れれば十分に地図の正確性の高さが確認できよう。
地図で「ひがしせんぞく」とある「く」の字辺りに駅本屋があり、このすぐ西にある北に伸びる細い道路に注目である。空撮写真ではよく見えないが、1191番地辺りから旗ヶ岡駅へ向かう短絡道に接続しているのがわかる。
続いて、同時期(昭和4年)の1万分の1地形図で確認すると、東洗足駅の北側に荏原郡荏原町地図と同じような道路が確認できる。もっとも、二本線ではなく単なる一本線なので、ここに道路があるということを知らなければ、この線分が道路だとは判断しにくい。つまり、この道路は限りなく狭い道路なのか、あるいは単なる通路(私道)のようなものだということだろうか。
そして同じく1万分の1地形図の昭和12年(1937年)のもので確認すると、単なる線分はきちんと二本線で示されるように道路に昇格している。東洗足駅からすぐ西側に出る中原街道への出口がはっきりしないが、これは公衆電話マークが記入されてしまい、結果としてつぶれてしまったと思われる。
ただし、戦後の空撮写真と昭和4年(1929年)の荏原郡荏原町地図に載っていて、1万分の1地形図に載っていないものもある。それは東洗足駅の西側にある線路を渡る道路である。「ひがしせんぞく」と駅名を記載するために、これも消されてしまったのか、あるいは別の理由なのかは定かでないが、ここでも1万分の1地形図に載っていないからといって存在そのものを否定することにはならない例の一つである、と肝に銘じることとしよう。
さて、いくつかの資料で東洗足駅には、中原街道へ通ずる出入口と駅北側からの旗ヶ岡駅への短絡道に通ずる出入口の二つがあることが確認できた。東洗足駅の開業は昭和2年(1927年)7月なので、開業後2年程度経過した頃までには旗ヶ岡駅への短絡道も確保できていた。といったところで、今回はここまで。
昭和4年の地図の東洗足派出所の位置が踏切を丸子側に渡った所にあることに注目しました。踏切の手前に移転したのは多分中原街道の拡張後であったと記憶しています。派出所の巡査が酔漢の暴行を受けて殉職されたことを思い出しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/10 21:18
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
派出所・駐在所の場所は、そうそう移動(異動)するものではないので、この東洗足派出所の移設はまさに拡幅用地にぶち当たってしまったから、ということですね。現在は、「旗の台交番」とここも旧称でなくなっていますが…。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/11 06:17
XWIN II様
地図の番地が左書きで地名が右書きであることに注目しました。当時の国粋主義的風潮を示しています。その時の風潮は合理主義を凌駕することがあります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/11 17:34
本日、地元の県立図書館にて、木造院様に教えていただきました「昭和前期日本商工地図集成」を閲覧してまいりました。物すごく大きな本で、重くて往生しましたが、でも改めてまたいろんなことがわかり、大変興味深い資料です。こういうものにめぐり会えるなんて、ご教示なければ一生わかりっこなかったことなので、その意味でも、XWIN ll様、木造院電車両マニア様、重ね重ね感謝しております。
荏原区の昭和8年の地図がありました。
周囲のお店の名前も多少入っています。
これは、このブログの一番上の昭和4年の地図と、道的にはほぼそっくりです。短絡路もはっきり二本線で描かれています。
ただ、線路をまたぐ道は、描かれておりません。XWIN ll様がおっしゃられるとおり、この道は、あとからできたものかと思量されます。
この地図は、バス停も詳しく載っているのですが、目を引いたのは、駅北側から中原街道に道が伸びており、中原街道とぶつかったところに「東洗足駅前」というバス停が書かれており、さらに三間どおりにも、もう一度「東洗足駅前」の表示があることです。
中原街道のこちら側と向こう側では、バス停の位置が真向かいではなく、かなり斜めの位置にあったのだなと思いました。東洗足駅から中原街道に直接向かい、中原街道にぶつかったところを右折した地点には「東洗食堂」があったとの記載があります。ここらあたり、結構にぎわっていたのかもしれませんね。
この資料は大変貴重なものなのですが、まことに残念ながら。
荏原区・蒲田区はあるのですが、大森区がありません。現存していないそうです。
く~~~残念です。
投稿情報: りっこ | 2010/01/13 16:11
木造院電車両マニア様、りっこ様、コメントありがとうございます。
貴重なご意見、ご感想をいただきありがとうございます。
バス停留所名については、近日中に記事としてあげてみようかと検討しております(役人答弁風)。無論、最初は「旗の台」(東洗足・旗ヶ岡)にからめていこうかと。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/14 07:34
XWIN II様
バス停の名前にはそろぞれ思い出がありセンチメンタル ジャーニーの感があります。期待しております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/14 08:16