前回後編4からの続き。
第十三期 池上電気鉄道消滅まで
- 昭和7年(1932年)8月24日 五反田、白金間工事施行の件
- 昭和7年(1932年)8月29日 奥沢線仮設工事使用期限延期の件
- 昭和7年(1932年)10月18日 池上及蒲田両停車場仮設工事の件
- 昭和8年(1933年)2月3日 五反田、白金間工事着手届
- 昭和8年(1933年)9月26日 諏訪分停留場を停車場に変更認可申請書依願返付の件
- 昭和8年(1933年)9月26日 諏訪分停車場常置信号機省略許可申請書依願返付の件
- 昭和8年(1933年)10月09日 長原停留場設備変更の件
- 昭和8年(1933年)10月11日 池上及蒲田両停車場仮設工事の件
- 昭和8年(1933年)10月30日 工事方法変更の件
- 昭和9年(1934年)4月6日 洗足池停車場設備変更届供覧並架道橋新設の件
- 昭和9年(1934年)9月11日 五反田停車場設計変更の件
- 昭和9年(1934年)9月17日 五反田、白金間工事竣功期限延期願却下並免許取消の件
- 昭和9年(1934年)12月8日 会社解散登記終了届
これでおしまい。五反田までの延長工事(広く言えば第三期工事)の頃は、1か月程度でこれくらいの分量があったが、消えるまでの期間はたったのこれだけ。とはいえ、事実上の代表だった後藤専務が役員でいたのは、昭和8年(1933年)7月10日の臨時株主総会まで。池上電気鉄道全14万株のうち、目黒蒲田電鉄並びに五島専務以下関係者で71,359株を押さえられたことで、いわゆる統制されてしまったわけだが、この期間を除けばわずかに最初の4項目しかないことになる。ここで合併までの経過を追っておこう。
- 昭和7年(1932年)5月30日 中島社長辞任し、後藤専務が代表者となる。
- 昭和8年(1933年)6月6日 本社を東京市京橋区銀座八丁目1番地から東京市品川区五反田一丁目272番地に移転。
- 昭和8年(1933年)7月10日 臨時株主総会で後藤専務以下役員全員の辞任を承認。目黒蒲田電鉄の統制下に入る。
- 昭和8年(1933年)7月24日 本社を東京市品川区五反田一丁目272番地から東京市品川区上大崎四丁目293番地(目黒蒲田電鉄本社)に移転。
- 昭和9年(1934年)6月12日 目黒蒲田電鉄との合併契約成立(池上株20対目蒲株25.5)。
- 昭和9年(1934年)6月28日 臨時株主総会で合併契約承認。
- 昭和9年(1934年)10月1日 目黒蒲田電鉄に合併。池上電気鉄道、20年余りの歴史に終止符を打つ。
巷間言われていることは、勝者(目黒蒲田電鉄、五島専務)からの視点より、川崎財閥代表者と五島専務がかけあって一夜のうちに池上電気鉄道株を大量取得し、一気呵成に乗っ取った(いわゆる強盗慶太の最初)となっている。これは表面から見た事実どおりであるのは確かだろう。実際、池上電気鉄道の大株主そして主要取引銀行はほかならぬ川崎第百銀行だったわけで、ここからの株式取得という事実は動かしようがない。ただし、五島専務の手腕によるものだったのかはどうなのだろうか?
昭和8年(1933年)のわが国の経済状況は、欧州のブロック経済策の余波をまともに受け、中国大陸進出が起死回生策だったことは大きな流れとして認められるが、川崎財閥のそれは中小企業向けの融資が中心だったこともあって、資金繰りをどうしていくかが課題であったと考えられる(現在の中小企業向け融資を中心とする金融機関と同様の状況と推定)。不況下では資金を預金等で得ることは困難であるので、局面打開策としては自身よりも資本規模の小さい金融機関を傘下に収め、その資金を活用するという手段が適当となる。実際、川崎第百銀行は、戦時中の昭和18年(1943年)に三菱銀行に吸収合併されるまでの間、数多の零細金融機関を傘下に収めていた。このような資金を入手する一手段として、池上電気鉄道株を手放したのではないかと考えるのである。
池上電気鉄道が多額の工事費償還について苦しんでいたとしても、新規の鉄道路線の開業が進めば、急速な都市化によって十分な利益を生み出すことは、大正末期から昭和初期をその目で見ていた人にとって今の人よりも自明であったに違いない。そこで番頭格の後藤専務は、川崎財閥側の意向を受けて次々と拡大路線を採り続けていたのではないだろうか。しかし、目黒蒲田電鉄等との戦いによって、路線拡大は国分寺線の用地買収不可能(耕地整理組合の土地は組合施行中の売買は原則禁止)及び五反田から白金方面は東京市との折衝不調により不可能、と八方塞になり、五反田~蒲田間と雪ヶ谷~新奥沢間の路線だけでは将来の拡大が見込めなくなったことで、川崎財閥側に見限られたと私は見る。たまたま偶発的に、池上電気鉄道株売却話が出てきたのを有利な条件で目黒蒲田電鉄が川崎財閥側に提示した結果が、五島専務側からの同一地域間競争の愚という大義名分の結果ではないのか、と。
(こうした大義名分論は、五島専務が役人上がりであることに通ずると見る。また、田園都市株式会社を目黒蒲田電鉄に合併させる際も、事業拡大論=田園都市株式会社は土地を分譲すれば事業終了だが、目黒蒲田電鉄はこれから乗客が伸びるので事業が拡大する方に合併するのが適とした。)
と、横道に逸れてきたので軌道修正。公文書タイトルを眺めれば、目黒蒲田電鉄の統制を受ける前の4つの文書は、白金への延長工事の件及び奥沢線、池上駅、蒲田駅の仮設備についてのものとなっている。結果として白金延長は東京市の反対で断たれてしまうことになるが、統制後には白金延長線の取消、奥沢線の廃止に目黒蒲田電鉄が動いているように、明らかに不採算事業であったことは確かだろう。だが、不採算だからといって事業拡大の芽を摘んでしまえば、川崎財閥の意向に反することになる。無論、不採算事業の見直しから後藤専務が見限られたとする勝者の書いた歴史(なお「東京横浜電鉄沿革史」ではまだまだ証言者が多数存在したからか、このあたりの経緯は一切ふれられていない)も理解できるが、先にふれたように川崎財閥側が資金を欲していた事情を鑑みれば、それ以上にお家の事情だったのではないかと考えるのである。
目黒蒲田電鉄の支配(統制)下に入っての文書で、注目できるのは9件。多くが路線整理と駅改良のものである。そして最後に、昭和9年(1934年)12月8日付の「会社解散登記終了届」。事務手続きもこれにて終了、と確認できる。
というわけで、数回にわたって国立公文書館アーカイブの情報から、池上電気鉄道の歴史をあたってみた。言うまでもないが、文書タイトルだけでの推測を多分に含んでいるので、多くの誤りや勘違いもあるだろう。時間を見て、これら文書を閲覧したいと考えているが、それは老後の楽しみに取っておくつもりである(あるいは長期休暇が取れたときにでも考える)。ただ、間違いなく言えることは、巷間言われていることが正しいとは限らないという認識を再確認できたことで、通説というものがいかにあてにならないかというのが、本件に関しても確実に存在したという事実である。やはり、一つの文献だけであれこれ論ずるのは、同時代に生きていないのであれば大変危険であることがわかった。また、現在(その時)を生きている人と過去を振り返り見る人とでは認識が異なるという前提も加味すれば、資(史)料を多面的に検討する必要もあるだろう。そんな当たり前の感想を抱いたところで、本シリーズは終了します。おしまい。
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