前回後編3からの続き。
第十一期 大森~池上間免許取消まで
- 昭和3年(1928年)10月10日 池上外3停車場仮設物設置の件
- 昭和3年(1928年)11月6日 池上町、荏原町間鉄道敷設免許の件
- 昭和3年(1928年)12月17日 大崎広小路停留場車輌運転保安設備変更の件
- 昭和3年(1928年)12月18日 五反田停車場設計変更の件
- 昭和4年(1929年)1月9日 雪ヶ谷外1停車場車輌運転保安設備変更の件
- 昭和4年(1929年)1月17日 大森、池上間工程表提出の件
- 昭和4年(1929年)1月31日 大森、大崎広小路間池上、蒲田間及大崎広小路、五反田間貨物運輸起業廃止の件
- 昭和4年(1929年)1月31日 池上、蒲田間工事竣功期限延期の件
- 昭和4年(1929年)3月16日 土工用軌道平面交叉の件
- 昭和4年(1929年)5月20日 駒沢町、平塚町間鉄道敷設願却下の件
- 昭和4年(1929年)5月24日 蒲田停車場保安設備変更の件
- 昭和4年(1929年)6月4日 桐ヶ谷停留場を停車場に変更の件
- 昭和4年(1929年)6月18日 調布村、国分寺村間工事施行認可申請期限延期の件
- 昭和4年(1929年)6月24日 石川台外2停留場設計変更の件
- 昭和4年(1929年)8月17日 荏原中延停留場を停車場に変更の件
- 昭和4年(1929年)10月4日 大森、池上間工程表提出の件
- 昭和4年(1929年)10月12日 池上及蒲田両停車場仮設備の件
- 昭和5年(1930年)3月28日 土工用軌道平面交叉使用期限延期の件
- 昭和5年(1930年)4月2日 蒲田終点附近工事竣功期限延期の件
奥沢線開業も国分寺までの構想からすれば、微々たるものだったが、それでも開業できたのだからまだよかった。しかし、奥沢線開業以降は池上電気鉄道はどんどんじり貧に追い込まれていく。この1年半の間の文書を見ると「大森」というキィワードが3つ出てくるが、これは池上電気鉄道の本線ともいうべき、大森~池上間の敷設に関するもので、再三繰り返されてきた工事竣工延期期限の延長がついに認められなくなる雲行きとなってきたからであった。昭和4年(1929年)10月4日付文書「大森、池上間工程表提出の件」は事実上、鉄道省への申し開きのラストチャンスであったが、翌昭和5年(1930年)6月19日、ついに鉄道大臣から免許取消処分を受けるに至る。ここに大正3年(1914年)4月8日免許されて以降、16年の歳月を経ても完成することなく大森~池上間の免許を失う結果となったが、この路線を失ったことは池上電気鉄道にとってどれほどの影響を及ぼしたのだろう。そもそも池上電気鉄道は、池上~蒲田間の支線免許を得る際、池上~大森間を諦めようとしたが、それをとどまらせたのは他ならぬ鉄道省だった。しかし、年月を経て今度は池上電気鉄道が免許の存続を望み、鉄道省は免許取消に動いた。この変化はどうして起ったかは、まだまだ検証中だが、次々と新規路線の免許取得を目指す拡大路線と機を一にするのではないかと思われる。
新規路線としては、昭和3年(1928年)11月6日付「池上町、荏原町間鉄道敷設免許の件」文書、昭和4年(1929年)5月20日付「駒沢町、平塚町間鉄道敷設願却下の件」文書があり、まだまだ諦めていないとばかりの昭和4年(1929年)6月18日付「調布村、国分寺村間工事施行認可申請期限延期の件」文書もある。これらに五反田駅から白金方面への延長線、大森~池上間を加えれば、相当数の路線を抱えていたことになるが、実際に開業しようと考えていたのはいくつあるだろう。八方ふさがりの雰囲気が立ちこめる中、大森~池上間の免許を失ったことは、私は池上電気鉄道にとって大きなダメージだったのではないかと思うのである。
第十二期 中島社長辞任し、後藤専務が代表者となるまで
- 昭和6年(1931年)5月27日 五反田停車場仮設工事使用期限延期の件
- 昭和6年(1931年)6月2日 東調布町地内鉄道敷設願却下の件
- 昭和6年(1931年)6月18日 慶大グラウンド前停留場位置変更の件
- 昭和6年(1931年)6月26日 奥沢線仮設工事の件
- 昭和6年(1931年)6月26日 池上停車場保安設備変更の件
- 昭和6年(1931年)6月26日 保安設備変更の件
- 昭和6年(1931年)7月3日 慶大グラウンド前停留場位置変更の件
- 昭和6年(1931年)7月18日 旗ヶ岡停車場中心位置変更の件
- 昭和6年(1931年)7月21日 停車場並停留場設計変更の件
- 昭和6年(1931年)10月12日 池上、蒲田両停車場仮設工事施行の件
- 昭和7年(1932年)1月8日 工事方法変更の件
池上電気鉄道の経営陣が川崎財閥を背景とした中島社長、後藤専務体制となってからは、五反田までの開業を成し遂げ、多額の工事費を抱え込んだものの、営業成績は伸びて株式配当も初めて実現するなど、大きな成果をあげるようになっていた。事実上の責任者は後藤専務であったが、社長に中島男爵(貴族院議員。古河電工創業者等)を据えたことで、各方面に睨みをきかせるには十分な体制であった。ところが、昭和7年(1932年)5月、5.15事件の犬養首相暗殺によって、新たな斉藤内閣が誕生した際、同内閣の商工大臣の要職に列したために中島社長は辞任することになった。結果、社長は空席にして後藤専務が代表者となる(このあたりはライバルの目黒蒲田電鉄が社長空席で五島専務が事実上代表者となっていたのと酷似。読みも同じゴトウというのも面白い)が、これが池上電気鉄道の消滅の一端となったと考える──が、この話題は後回し。
では、第十二期の文書を見てみると、延長工事真っ盛りだった頃とは久しからずや…みたいな感じで、すっかり落ち着いてしまっている。駅の位置変更等が慶大グラウンド前駅と旗ヶ岡駅に見られるが、これは乗降客の増加によって駅設備を拡大・充実させたからだと思われる。時期的にも、荏原郡は昭和7年(1932年)10月1日に東京市に合併されるように人口は爆発的に増えており、中でも荏原町は13万人の人口を数え、多くの市よりもたくさんの人を抱えていたのである。位置変更、設計変更が多いのも自明となるだろう。
といったところで、今回はここまで。次回で「国立公文書館情報から池上電気鉄道の歴史を追う」シリーズは最終回(予定)となるはずです。
池上電気鉄道についての、成り立ちの話、本当にありがとうございました。
私が知っているのは「東急池上線」
でもその前に、いろんな歴史があり、そして今があるのだなと。
それを教えていただき、嬉しく思っています。
ところで先日、新馬場の品川区立図書館に、行ってきました。
そこでまた、ちょっとわかったことがあるので、書かせてくださいね。
「旗ヶ岡」のプラットホームの写真なのですが、あそこに写っている学生さん。あれ、当時の「昭和医専」の、制服なんです。特にイベントがあるわけじゃなくて、当時学生さんは、皆あの姿で通学。ハイカラですよね。
そして、図書館には「立正学園創立35年史」(現・文教)が所蔵されており、読みました。これは、ナカナカのもんでした。
表紙を開けてすぐの扉に、「立正学園」の俯瞰写真が掲載されているのです。
立正学園創立35年……この本の発行が昭和36年なのです。
旗ヶ岡駅廃止10年後
残念ながら、「本屋」のあった方の場所は、写真から切れているのですが、相対したホームの、立正学園グラウンド隣接敷地が、はっきり上から写っており、往時がかい間見れるような、何となくイメージがわくような気がしました。
気のせいかもしれませんが、プラットホームがあった場所と、そうでない場所、地面の色が若干違っているような……上から見ると、そんな感じがするのです。
投稿情報: りっこ | 2009/12/04 17:12
りっこ様、コメントありがとうございます。メインPC環境構築中のため、合間合間の時間でのコメントでご容赦願います。
さて、立正学園本。実は探してみたんですが、品川図書館にありきですか。昭和36年(1961年)頃といえば、ちょうどその頃の国土地理院空撮写真があったりしますが、低空撮影じゃないのでわかりにくいんですよねぇ(オリジナルネガからならどうかなとは思いますが)。
戦前の学生さんがハイカラ、というのもありますが、今と決定的に違うのは写真の撮られ方(被写体となる心構え)もあるかな、と。最近はよほどのことがない限り集合写真然としたものを撮らなくなった(撮られなくなった)ような…。そういう意味では、今日、文集用(記念)の写真というのは貴重かもしれません。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/05 16:19
お返事ありがとうございます。旗ヶ岡に続き、東洗足駅も書いていただけるということなので、言葉に尽くせないほど楽しみにしています。(大げさでなく、心からそう思っています)
「立正学園」の俯瞰写真は、はっきりわかる位置で撮られていて、感激ものでした。
実は聞くところによると、この品川区立図書館。
「郷土史資料に関しては、23区一」という「噂」です。
でも、案外本当かもしれません。資料の充実度は、確かにすごいです。
旗ヶ岡関連ではありませんが、昭和21年の学研の本社屋の写真もありました。
ここは我が実家と中原街道を挟んでほとんど真正面。
もっともここにこの社屋があったのは、昭和21年~26年で。
私は生まれておりませんが……(笑)
投稿情報: りっこ | 2009/12/05 18:18
おはようございます。
一つ、追記させてくださいませ。
私の手元に、国土地理院の空撮写真があります。
これが、昭和29年発行のもので、旗ヶ岡駅が、まだ「存在」しているのです。本屋の形なども見られます。多分、取り壊し前なんでしょうね。一方で旗の台駅も、既にできております。
私の幼少時。東洗足駅は、プラットホームの残骸として、まだそこにありました。だからこそ、子供心に、「何でこんなにところに駅が?」と、奇妙に思っていたわけで、そのときの不思議な感覚。今でも記憶に鮮明です。こういうものは、すぐには取り壊さないのかもしれませんね。
投稿情報: りっこ | 2009/12/06 08:15
あ~すみません。(>_<)
この昭和29年の空撮写真は、「品川歴史館」の図書室にあります。
投稿情報: りっこ | 2009/12/06 08:16
りっこ様、コメントありがとうございます。
図書館に特徴を出すことは各自治体が工夫しているところですが、一方で予算削減で真っ先に狙われるところでもあるので、だれが為政者として君臨するかで状況も変わってきます。
いわゆる身近な地方史ブームのようなものが20~30年ほど前にあり(トマソン、路上等々)、最近は散歩ブームに合わせて似たような状況ともいえますが、こういうブームの時期に出版される多くの書籍は今一つのものが多く、図書館の目利きが問われます。
以前(20年ほど前)は、大田区が教育行政レベルが高く、図書館の充実はもちろんですが、区史関係の出版物も多く出されていました。しかし、政権が変わってからはまったく尻つぼみとなり、また政権が変わった今に至るまで見る影もありません。目黒区についても同様で、ハコモノ投資がなされる頃には見る影もなくなりました。品川区については近場でありながら、最寄の図書館が目黒区や大田区に比べてかなり劣っている印象が強かったので、このお話しによって見方が変わったようになったかな、と。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/06 08:28
りっこ様への追加コメントです。
戦後の資材不足の中、新駅建設も厳しかったのかなと思いますが、撤去も同様というかそれ以上にないがしろにされていたのかも。空撮写真の件についても情報ありがとうございました。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/06 09:18