その5で書いた後、補足的なおまけ。
まず、最初は池上線二両編成の可能性についてだが、これはこの当時、限りなく可能性が低いことが確認できた。資料は、戦時中に発行された「東京横浜電鉄沿革史」519ページより記載される「第一章 鉄道及び軌道業」の「第一節 運輸及び運転」内の記事で、目蒲線、大井町線、東横本線、池上線の4線について運転系統や運転概況等が紹介されている。このうち、目蒲線と東横本線については、二両編成(目蒲線、東横本線)や三両編成(東横本線)が言及されているが、大井町線と池上線については編成数にまったく言及がない。このことから、この章が昭和15年(1940年)8月時点以降の記述であることも考えれば、目黒蒲田電鉄に合併されてからはもちろん、それ以前の池上電鉄時代も一両編成であった可能性が高い。
また、同じく「東京横浜電鉄沿革史」の562~563ページには「池上線客車運輸成績累年表」があり、大正15年(1926年)から昭和16年(1941年)までの客車走行距離が掲載されている。これを見ると、五反田駅まで全通してから昭和16年(1941年)まで客車走行距離が2倍にすらなっていない。二両編成以上となっている目蒲線や東横本線を見ると、この値が数倍にも達しているので、池上線は二両編成になっていないことがわかる。(同じダイヤで一両編成から二両編成になった時点で、客車走行距離は単純に2倍になる。客車走行距離とは一両毎の積み重ねなので、編成数が増えれば自ずと倍以上になっていく。)
もう少し証拠を積み重ねて結論を得たいので、断定はしないでおくが、限りなく高い可能性で昭和16年(1941年)までの池上線は一両編成であり、旗ヶ岡駅の移設可能性についてはプラットホームの延伸説はほぼ否定されたと考える。
そして、米軍空撮写真の旗ヶ岡駅周辺を拡大したもので確認すると、やはり駅本屋とおぼしき出っ張りは写真でいうとやや左寄りにある。ただ、これは昭和22年(1947年)時点なので、既に池上線も2両編成の電車が走るようになっており、ホーム屋根も2両編成の電車対応済みとなっている。ただ、現在の遺構を見ると疑問がないわけではない。
旧旗ヶ岡駅近くの踏切から荏原中延駅(五反田駅)方面を見ると、旧旗ヶ岡駅時代のホーム跡が確認(線路右側の柵で囲われた辺り)できるが、かなり踏切から奥まったところに位置し、昭和22年(1947年)のホーム屋根はもっと踏切寄りにあるように見える。その4でご紹介した写真をもう一度掲載すると、
このようにホームから階段状に下る部分があり、この部分まで足せばもう少し踏切寄りになるような気もするが、そうなると今度は屋根の長さが足りなくなる(上写真では屋根が階段状まで来ていない)。いつ駅舎が二両編成対応となったのか、という疑問もあるが、とりあえず昭和12年(1937年)までは一両編成だったことから考えれば、旗ヶ岡駅そのものが移動したのか、あるいは昭和4年(1929年)時点の1万分の1地形図の記載が誤っていたかのどちらかだとなる。
何か決定打のようなものがあればいいのだが、そうそう見つかるものでもないので、おまけとしての今回はここまで。
毎度、登場してしまって申しわけありません。それだけ楽しみにしているので、ということで……m(_ _)m
実はこの「遺構」のことなんですが。私もずっと駅の跡地だと思ってきましたら、くだんの旗ヶ岡駅至近距離に住んでいた友人いわく、「これは旗ヶ岡駅の遺構じゃない」と明言されました。詳しい話もそのときに聞いたのですが、忘れてしまいました。すみません。またもう一度聞いておきます。ただ、ホームはこの位置ではなかったそうです。
投稿情報: りっこ | 2009/11/24 06:52
りっこ様、コメントありがとうございます。毎度の登場ということですが、歓迎ですのでどうか気になさらず。
旗ヶ岡駅の遺構には違いないとは思うのですが、ホームの位置ではない。確かにそうだと写真等からは確認できるので、ご友人のおっしゃるとおりかと思います。ただ、あの場所は位置的に駅から中原街道までの道路の中心線に位置する(柵の位置から一両分ホームを五反田寄りに想定すると、ホームの中央位置と道路の中心線がほぼ一致する)ので、可能性の問題ですが、多くの人が利用するまでの初代旗ヶ岡駅ホームが「遺構」の場所で、その後、やや蒲田寄りに移動したとも考えられるかな、と。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/24 07:22
ありがとうございます。そう言っていただくと、ほっとします。
本当にこのブログには感謝しておりますし、楽しみに楽しみにしておりますので。
ところで、申しわけありません。友人に電話でたった今確認いたしました。「遺構」であることは、XWIN様のおっしゃるとおりみたいで、私の早とちりだったようです。(私は元来おっちょこちょいなのです……)早飲み込みでコメントを書いてしまい、まことに失礼いたしました。
友人いわく。近所のお年寄りに小さいときに聞いた話では(その人たちたちは、皆さんもうおられない方がほとんどだそうです)
駅の左端に子育て観音があり(今もその場所にあります)、そこから7メートルぐらい右の位置に、旗ヶ岡駅の入り口(本屋というのでしょうか)があり、その正面に、中原街道への道があった。というものでした。
駅前は、結構広い広場がかなり長いこと残っており、友人が小さいときには、そこにお祭りの屋台が出たそうですよ。
投稿情報: りっこ | 2009/11/24 09:38
国立公文書館のデジタルアーカイブで、旗ヶ岡を検索しますと、
旗ヶ岡停車場渉線位置変更の件 昭和3年03月06日
旗ヶ岡停車場中心位置変更の件 昭和6年07月18日
旗ヶ岡停車場中心キロメートル程変更並びに設備変更の件 昭和10年02月28日
と三件の該当がありました。
インターネットでは件名までしかわかりませんけれど、
ご参考まで。
なお、私たちも、京王線下高井戸駅の位置変遷について、考察を行った経過があり、
デジタルアーカイブ検索については、きむらたかし@三田用水さんから、ご示唆いただきました。
考察の過程は、川俣晶さんのホームページ中の
http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20090824111410
及び、
「サイト内のコンテンツリスト」などに記載されておりますので、ご参照いただければ幸いであります。
投稿情報: 桜上水confidential | 2009/11/24 10:09
りっこ様、コメントありがとうございます。
戦後の空撮写真を見ると、駅前には結構木々が多く残っていることがわかります。また、戦前の駅前写真を見ても冬撮影のためか、枯れ木状態になってはいるものの、大きな木が植えられていることが確認できます。なので、駅前広場と言うべき存在はしっかりあったのかな、と。
手元にある昭和44年発行の住宅地図を見ますと、旗ヶ岡駅本屋等のあった場所は今のようにマンション(社宅?)が敷地ぎりぎりに建っておらず、結構ゆとりがあるように東急系企業の建物が載っています。昭和38年の空撮写真(近いうちに掲載予定)でもそのように見えることから余裕があったのだろうな、と。
本当に色々情報ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/24 19:31
桜上水confidential様、コメントありがとうございます。
いきなりですが、よもやここで川俣氏のお名前を見るとは思いもよりませんでした。あまり詳しいことは言えませんが(本名ばれるので。苦笑)、Windows 2.x時代からの知り合いだったりします(友人等ではありませんが)。リンク先を見ましたが、プログラマらしい視点だな、と(笑)。
さて、それはともかく貴重な情報ありがとうございます。件名だけでも十分で、ほぼ確実に「中心位置変更の件」から何らかの移動があったことは類推できます。ただ、注意すべきは公文書だからといって、すべて本当のことが書かれているわけではないことです。よく公文書にこうあるんだから、こうあるべきみたいな論調がありますが、あくまで公文書上ではそうなっている程度の認識を持つ必要があるかな、と。やはりいくつかの資料を照らし合わせ、現場を確認し、当時の人たちのお話しを伺う、という。
下高井戸駅のお話しもなかなかに興味深いものでした。今後ともよろしくお願いいたします。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/24 19:31
またまた登場、失礼いたします。何だか盛り上がってきて、とっても嬉しいです!
私の手元にあるのは、昭和43年の住宅地図ですが、それは多分ほとんど同じですよね。
そして、昭和35年の住宅地図もあります。これを見ると、我が幼馴染の家が、旗ヶ岡駅至近に3軒あったのだなあと……もっとちゃんと話を聞いておけばよかったです。お嫁に行った方は、もう消息がわからないので。
今後の展開、ワクワクしながらお待ちしています♪
桜上水様、読ませていただきました。
すばらしい考察だと思います。駅の構造一つとっても、いろんな角度からの見地があるものなんですね。
投稿情報: りっこ | 2009/11/24 21:47
りっこ様、コメントありがとうございます。
なるほど、やはり地元に勝るものはなし、ですね。
今後の展開については、週末くらいまでお待ちください。
とはいえ、年末に近づいても来ましたので、仕事と家庭とのバランスを保ちながらの展開となりますが…。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/26 07:34