さて、今回その6とふってはみたが、旗ヶ岡駅の話題とはやや離れる点をご了解いただこう。とはいえ、まったく無関係ではなく、現在の旗の台駅がある東急池上線と東急大井町線の交差部分についての話題である。現在は旗の台駅があり、しかも近年の大改造で乗り換えが便利になった(ちょっと前までは池上線の下り(蒲田方面)ホームから大井町線の下り(二子玉川方面)ホームの乗り換えの不便さが急拵えの名残)ので、もともとここに駅が存在しなかったことを慮ることも困難となりつつある。
鉄道の交差部分は、平面交差という例外はあるが、基本的には立体交差を伴い、どちらか一方が地上でどちらか一方がそれを乗り越えるか、くぐるかを行わなければならない。そして、工事費は後者の方が圧倒的に高いので、どちらも前者となることを望むことになり、争いの種になりやすい。そこで先取特権という原則が導入され、最初に免許(特許)を得たものが工事費が安くなる方を選択するようになった。池上電気鉄道(池上線に相当)と田園都市株式会社(大井町線に相当)との交差部分は、先に免許を得たのが池上電鉄だったので、構造物(橋梁)を伴う工事は後発の田園都市株式会社の路線が採ることとなった。
- 大正3年(1914年)4月8日免許(池上電気鉄道発起人)
- 大正9年(1920年)3月6日免許(荏原電気鉄道株式会社)
このように約6年早く免許を得ていたが、池上電鉄は会社の設立は免許を得てから3年以上も経過した大正6年(1917年)であり、さらに資金不足に陥ってしまい、ペーパーカンパニー同然の状況が続いていた。一方、田園都市株式会社は鉄道免許を得るためのダミー会社として、荏原電気鉄道を設立し、首尾良く免許を得た後はその免許を田園都市株式会社に譲渡し、着々と建設計画を練っていたが、まだまだ具体化には至っていなかった。
この時の両社の協定書は、以下のとおりである。
見にくいので、以下に示そう(漢字は基本的に現在通用するものに置き換え)。
協定書一、池上電気鉄道株式会社(以下単ニ甲トス)線路六哩七拾五鎖附近ニ於テ田園都市株式会社(以下単ニ乙トス)線路零哩六拾七鎖九拾節トノ交叉ニ付テ甲線路ニ径間四拾呎ノ橋梁ヲ架設シ其鉄桁下端ヨリ乙ノ線路軌条面迄高サ拾八呎弐吋拾六分ノ拾台ヲ保有セシムルコト
二、本橋梁ノ位置ハ甲ノ既ニ認可済ノ線路ヲ基準トスルコト 但シ橋梁ノ設計ハ主務官庁ノ認可ヲ経タルモノニ依ル
三、本橋梁工事施行ニ際シテハ双方技師立会ノ上協議スルコト 但シ甲乙双方ノ工事上ノ意見纏マラザル時ハ甲ノ設計ニヨル事
四、本橋梁及ビ之ニ付随スル工事ハ甲ニ於テ施行スルモノト雖モ乙ノ事業進行上之ヲ施行セントスル時ハ総テ甲ト協議ノ上施行スルコト
五、本橋梁及ビ付帯工事ニ要スル費用ハ乙ニ於テ負担スルモノトス 但シ本項ノ費用ハ工事着手前乙ニ提出シテ承諾ヲ求ムルモノトス
六、本橋梁架設箇所ハ甲乙何レニテ買収スルモ相当額ヲ以テ借用セシムルコト
以上
大正拾年拾弐月拾七日
池上電気鉄道株式会社
取締役社長 芳川寛治
田園都市株式会社
専務取締役 竹田政智
この協定書の締結年月日は、大正10年(1921年)12月17日とあるように、池上電鉄は先にもふれたように免許が棚晒し状態が長く続いており、未だ蒲田~池上間の敷設工事すらまともに施工していない状況(起工式はこの半年ほど前に行われていた)であり、一方の田園都市株式会社も目黒蒲田電鉄を誕生させる前であった。つまり、両社とも敷設工事以前の時期にこのような協定書を締結していたのである。しかし、この両線は現在に言う東急池上線と東急目黒線(部分的に東急大井町線)の前身にあたるが、どちらもこの協定に出てくる路線とは異なっている。よって、交差部分も現在の旗の台駅にあたる部分ではなく、大雑把に言えば昭和大学の北側辺りに位置していた。
この協定が締結されて約4年半が経過し、新たな協定書が締結されることになる。
先ほどと同じく、見にくいので、以下に示そう(漢字は基本的に現在通用するものに置き換え)。
協定書目黒蒲田電鉄株式会社(以下単ニ甲ト称ス)鉄道線路大岡山起点零哩七九鎖三六節二分ニ於テ池上電気鉄道株式会社(以下単ニ乙ト称ス)鉄道線路大森起点五哩三三鎖八二節ト交叉スルヲ以テ甲乙両者協定スルコト左ノ如シ
一、甲ノ鉄道線路ハ乙ノ鉄道線路ヲ跨線鉄道橋ヲ以テ横断スルモノトス
二、跨線鉄道橋ハ添付図面ノ通リ径間四十呎ニシテ乙ノ鉄道線路軌条面上ヨリ跨線鉄道橋梁鋼桁下端迄十四呎六吋トス
三、本工事施行ニ際シテハ甲ハ予メ其工事方法ヲ乙ニ提示シ設計協議ヲ為シ甲ニ於テ工事ヲ施行スルモノトス
四、本工事ニ要スル費用ハ総テ甲ニ於テ負担スルモノトス
五、本橋梁架設箇所ハ甲乙何レニテ買収スルモ相互ニ借用セシムルコト
大正十五年六月十五日
目黒蒲田電鉄株式会社
取締役社長 市原求
池上電気鉄道株式会社
取締役社長 男爵 中島久萬吉
大正10年末(1921年)の協定書とは交差する場所が異なったため、再度協定書を締結することとなったわけだが、この時の池上電鉄の計画路線は、現在の大崎広小路~五反田間を除けばほとんど変わらない。一方の目黒蒲田電鉄側の計画路線も、現在の東急大井町線とほとんど変わらない。時期的に大正15年(1926年)中頃と言えば、両線が開通するほぼ一年前に相当し、線路用地も耕地整理組合との協議もほぼ整っていた頃であり、これ以降に計画(工事)路線の大幅な変更はあり得ない状況だった。そして、この交差点とは今、東急池上線を東急大井町線が乗り越える場所に相当する。
この時期の池上電鉄は川崎財閥の資本が入り、雪ヶ谷駅止まりだった単線営業も、複線化さらには五反田までの延長工事が具体化しつつあった時期ではあった。が、しかし、一方の目黒蒲田電鉄は目黒~蒲田間を全通させ、現在の大井町線にあたる部分も準備万端。関連会社の東京横浜電鉄は丸子多摩川~横浜を開通させ、渋谷までの建設準備も進んでいた。まさに勢いの差は5年前の状況とは雲泥の差があり、協定書における甲乙の立場も逆転したのかと穿った見方もできる。
二つの協定書を見比べてみると、原則論(乗り越える方と乗り越えられる方)は変わっていないが、細かな点では甲乙の逆転以外にも異なった点は散見される。例えば工事費用について、最初の協定書においては田園都市株式会社の見積額を池上電鉄に示し承諾を求めるようになっているが、二番目の協定書には一切ふれられていないなど、明らかに池上電鉄側が後退しているような印象を受ける。池上電鉄と田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)とのかかわりは、最終的に合併という形で終焉を迎えるが、交差部分に乗換え駅を設けないなど、けっして良好な関係でなかったことは後説を辿らずとも確かだろう。しかし、協定書だけを見ていれば、無論そんなことはわかりはしないが、そういったことを考慮に入れながら協定書を眺めていると、色々なものを読み取ることができる。それもまた、こういった文書の読み方の一つであり、面白いところでもある。
といったところで、今回はここまで。
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