前回(その1)は、旗ヶ岡駅のプロフィールを簡単にふれてみたが、今回は旗ヶ岡駅誕生の経緯について検討していきたいと思う。池上電気鉄道は、現東急池上線とほぼ同じ路線及び駅の位置(新奥沢線といった支線を除く)だが、大きく異なっているのは、旗の台駅に統合された旗ヶ岡駅と、千鳥町駅と改名され現久が原駅寄りに移設させられた慶大グラウンド前駅と、戦災を受け復活することなく廃止された桐ヶ谷駅の3駅である。このうち、慶大グラウンド前駅と桐ヶ谷駅については既にふれており、残るのがこの旗ヶ岡駅のみとなる。よって、今回は旗ヶ岡駅の歴史を語る前に、池上電気鉄道の歴史についてもふれ、計画から路線敷設まで、名目共に紆余曲折した結果、旗ヶ岡駅が誕生するまでの流れを追っていこう。
池上線の歴史は、池上電気鉄道発起人が1912年(大正元年)12月25日付け(12月28日受理)で、東京府荏原郡大崎町大字上大崎字永峯通(目黒駅付近)から同郡入新井村大字新井宿字八景坂(大森駅付近)までの6マイル30チェーン(約10.3km)の軽便鉄道法に基づく特許(いわゆる敷設免許)を申請したことが始まりとされているが、もともとの計画は院線(のち省線、国鉄、現JR)大森停車場付近から池上本門寺門前道に至る軽便鉄道として考えられたものだった。
当時の計画図をご覧いただくとわかるように(縮小してつぶれて見えないか)、始点は「入新井村字新井宿二千三百八十四番地」(正しくは入新井村大字新井宿)、途中点は「入新井村字新井宿千二百九十八番地」(正しくは入新井村大字新井宿。)、終点は「池上村字徳持九百四十九番地」(正しくは池上村大字徳持)と書かれており、始点からしばらくは山王(台地)裾側に線が引かれ、途中点付近からは道路上に線が引かれている。始点を大森駅西側(山王側)としているのは、言うまでもなく院線を越えない(潜らない)ようにするためであるが、当時の大森駅は西口(山王口)は計画はあったができておらず、できてくれれば儲けもの程度だったと思われる。また、途中から道路上に計画しているにもかかわらず、始点から途中点までを道路上ではなく山王側にずらしているのは、道路が狭かったことに加え、道の両側に建物が建て混んでいたからいたからで、このペーパーレベルの計画時点で既に大森駅西側への軌道建設は困難であろうことが予想できる。
だが、この区間は明治期から乗合馬車による旅客輸送が行われていた(のちに池上電鉄がバス輸送営業を開始したことで廃止)ほど需要があり、明治末期には池上競馬場が開場したこともあって、大森駅から池上までの交通需要増は、新たな交通機関の必要を疑わなかったはずである(池上競馬場が開場した頃には、蒲田駅は既に開業していたが、当時は西口はなく商店街などもまったくといっていいほどなく、距離的にはむしろ蒲田駅からの方が近かったが、田畑広がる所を通って遊行しようとは思わないだろう)。大森駅東側には1901年(明治34年)、京浜電気鉄道によって電車営業が開始されており、西側にも軌道建設というのは突飛な話ではなかった。
しかし、池上競馬場は競馬法改正でわずか3年ほどで廃止され、再び交通需要の主役は池上本門寺参詣客が中心となり、需要減の中、池上電気鉄道の軽便鉄道敷設計画は乗合馬車や人力車組合等からの建設反対運動に遭うようになる。池上電気鉄道としても池上競馬場を失ったことは大きく、新たなる交通需要を求めた先が目黒競馬場であった。結果、池上から目黒駅までの計画路線が追加され、あまりに不自然な線形の約10.3kmとなったのである。
1912年(大正元年)末に特許申請した際には、大森駅西口(山王口)建設工事は施工中であったこと(翌年2月完成)、当初計画地だと坂道を登らないとならないこと、さらには大森駅東口まで乗り入れている京浜電気鉄道との接続等も考慮に入れて、現在の大森駅南側にある東海道・京浜東北線のガード下付近に始点を移動し、院線線路に沿って南下、現在の環七通りは春日橋(陸橋)付近からやや右斜め(南西)方向に折れ、池上道とほぼ平行するように進み、現在の池上駅あたりで接続するように敷設計画が改められた。
と、ここで図を書き始めたら、時間がかかりすぎることが判明。この調子でいくと旗ヶ岡駅の歴史を探る前にへばってしまいそうなので(苦笑)、いったんここで熟慮するため、続きは次回とします。
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