現地を見るとわかるように、北側踏切方面に改札があるのが自然だと感ずるが、こちらはあまりぱっとせず、おそらく最も利用があったであろう桐ヶ谷斎場への道程も回り道となる。では、南側橋上駅舎だけなのか、というと地形上から見て果たしてそうだろうか? という疑問を呈したのが前回(その1)までだったので、今回はその続きとなる。
この疑問を解決するには、やはりその当時の地図にあたるのがいいだろう。地図の定番と言えば、国土地理院(戦前は陸地測量部)のものとなるが、1万分の1地形図では駅の形が四角形(長方形)で表記されることがほとんどで、どちらに改札があるのかとか本屋があるとか等、駅の構造まではわからないことが多い。今回は示さないが、桐ヶ谷駅についても同様で北側か南側かはわからなかった。そこで、既存の文献をあたってみたところ、これも以前に取り上げたことのある「回想の東京急行 I」(著者 萩原二郎・宮田道一・関田克孝。大正出版)に「桐ヶ谷駅」の平面図が掲載されていることが確認できた。この原本(マイクロフィルム)は東京都公文書館にあるとのことなので確認すると、以下のようなものであった。
「回想の東京急行 I」に掲載されているものと同じだが、よりきれいにとれているはずである。上図では、北が右側で南が左側となっている。赤丸で示したように、駅ホームからのアプローチは北側でも南側でもなく、駅ホーム北寄りの東側に側道を設け、東側から出られるようになっていることがわかる。この図面は、開業前に池上電気鉄道が当局に提出した図面であるので、まったく寸分違わず同じではないものの、開業時(1928年(昭和2年)8月28日)はほぼこのような駅構造となっていたと思われる。では、南側橋上駅舎はどこにあるのだろう。無論、この図面からはそのようなものは存在しているようには見えない。
では、再び地図に戻ってみよう。
この地図は、1930年(昭和5年)3月15日発行の「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」(縮尺6千分の1)の一部で桐ヶ谷駅周辺(左から「やがりき」とあるのが右から読んで「きりがや」となる)を切り出してみたが、明らかに開業前の図面とは異なっているように見える。地図上では、駅南側(地図上では右斜め下)に出っ張りが書かれていて、接道する箇所もやや太い道路になっているような感じで、これこそ南側の橋上駅舎からのアプローチといった印象だ。しかし、まだまだ6千分の1の地図でもはっきりしない。決定的なものはといえば、今日ある住宅地図のようなものであるが、戦前の時期にそれに類するものといえば、いわゆる火災保険地図だろう。早速あたってみることにした。
いわゆる火災保険地図は、散逸してしまっている地域が多いが、今回は運がよく当該地域のものを発見することができた。またまた方位がずれてしまっているが、この図は上が北側で下が南側となる。おわかりのように駅ホームから南側にアプローチがなされ、南側に駅舎らしきものが確認できる(図中の「桐ヶ谷駅」とある箇所)。基本的な構造は「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」に表記されている内容と同じだろう。ただ、これを橋上駅舎と呼べるかと言えば、そうは言えないように思う。どう見ても、駅舎は空中構造物ではなく、法面のさらに道路側に置かれているからである。
ここでまたまた疑問符が付く。道路という公共用地上に私物の駅舎をつくってもいいのか? というものだが、この回答は先に示した「桐ヶ谷停留場之図」に見えている。
この図では水色を付けておいたが、要はこの水色で囲んだ部分が池上電気鉄道の敷地なのである。東側(上図では下側)の道路は、実は道路は道路でも公道ではなく私道であり、駅を出てから北側踏切側道路及び南側道路へのアプローチ道路だったのである。これは現在においても変わっておらず、今でも私道だと示す看板が掲出されている。
上写真は南側跨線橋より当該私道方面を撮ったものだが、ご覧のように何かの道路標識のようなものを再利用した「私道」という看板が確認できる。現地を確認するとわかるが、この池上線脇の道路が一見して私道とは通常思えない。道路幅員にしても道路条件(行き止まりでもなく、地域主要道路をつないでいる)からもそうなのだが、桐ヶ谷駅からのアプローチ道路だったとわかれば納得だ。往年の「たんけんぼくのまち」のチョーさん曰く「調べて納得、うんそうか」でおもしろ地図に書き込みたくなる、というものであろう。
さて、この辺で一度整理してみよう。
まず、北側と南側に改札があったのか、という疑問に対しては、どちらも証拠となりそうなものを確認できた。北側説は、開業前の当局に提出した図面「桐ヶ谷停留場之図」で確認できたが、北側ではあるが踏切からはやや離れており、どちらかといえば東側という方が適切であろう。理由は、東側から出て私道を経由し、北側にも南側にも行くことが可能だからである。
もう一つの南側説は、二つの地図「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」と当該地域の火災保険地図から確認できた。地図は、例外はあるものの、通常はそこにあったものが記載されることから、南側に改札があったことは疑いようがない。ただし、橋上駅舎だったかどうかまでは何とも言えない、となるだろうか。
このあたりで、その3に続く。
桐ケ谷駅の歴史を探るその2の保険地図に示されているホームから駅舎への跨橋の支え段が崖の法面に残って居ります。昭和20年5月25日の空襲で焼けた跡も残っていたように記憶しています。私も焼け出されましたので暗い記憶が甦ってきます。
投稿情報: 湯山洋三 | 2009/05/30 12:52
湯山洋三 様、コメントありがとうございます。
(コメントを適切なところにつなぎました。ご容赦願います。)
私も現地を確認してきました。近日中に新たな話題として掲載予定ですが、ご指摘の崖の法面部分も見てきました。ほか、私道部分についても、新たな「発見」(あくまで私にとっての)もありました。
お話しの焼けた跡、というのは元を知らないだけに、単なる汚れ等と区別がつかない為、残念ながら現地を再訪しても私には分からない可能性が高いです。残念。
投稿情報: XWIN II | 2009/05/30 12:58